「AIR」私的見解


まずは自己批判から始める……前に一言。
この文章は、同じブランドから発表された前作「Kanon」を知っている事を前提にして書かれているので、わからない人は置いてきぼりになるものと思って欲しい。
まあ、この2作品は切っても切れない関係にあると俺は思っているので。

では、まずは自己批判から。
こればかりはもう、何度やっておいても足りないくらいである。
元はと言えば、このゲームに対する俺の評価は「最低」だったのだから。
全く申し開きのしようも無い。
いいわけは一切無しで、Keyに対して素直に謝ろうと思う。

誠に申し訳ありませんでした。

いや、本当はこの程度じゃ全然足りなくて、Key本社ビルの前で土下座したい気分である。
しかし、過去に思っていたことは間違いなく過去の自分の姿であるから、批判的文章の載ったログを削除するような事はしない。
流石にそれは卑劣ってモノだ、過去の過ちと向き合えないような真似は俺はしたくない。
そういう訳で、過去の批判ログと、現在のログとの間に矛盾があるのは、ご勘弁願いたい。
それは、現在の自分と過去の自分の矛盾を隠蔽しないための教訓、と思って頂きたい。

 

では、次になぜそう思ったのかを、前作の「Kanon」を挙げながら書いていこう。

前作「Kanon」の特徴は、何は無くとも「人間のキレイな一面」を強調したストーリーにあった。
また、最終的な決着(要するに話のオチ)は、全てのシナリオにおいて超越的な力によって、強引にもハッピーエンド化され、いかにも「御伽噺」の体裁を取っていた。
また、エロゲーであるのにエロが希薄というのも、実に(良くない意味で)斬新だった。
これらの要素に対して、俺はどうしても反感を感じずにはいられなかった訳で、なぜ反感を感じたかというと、それは「物語優先主義」的な態度にあった。
毎度どこかで書いていることではあるが、俺はストーリーを優先した話を信用できない。
なぜならば、キャラが動いてこそストーリーが出来ていくものだと俺は思っているからである。
その点、Kanonに対しての俺の印象はかなり悪かった。
ただし、一般向けの作品としての評価はしていたから、他人様にはお勧めだとは思っていたが。

更にKanonについて言及しておく。
Kanonにおけるキャラクターとは、一体どのような位置付けであったか。
これは、「物語を紡いでいく人間」ではなく、「物語に流される人間」であったと言える。
そう断言できる最大の理由は、物語の最後には「奇蹟」によってハッピーエンドがくる事である。
その「奇蹟」が起こる過程においては、どこにも人間的な葛藤は無く、解決を諦めた無力感が漂っていた。
つまり、人間的な足掻きや、生き抜こうとする強い、それでいて泥臭い意思を感じる事がなかった訳で、そう言った部分のえげつなさを排除した事が、逆に物語から「人間臭さ」を奪っている。
更に、主人公が居候する事になる水瀬家では、ヒロインたちが同居する事になる。
俺が何よりも納得がいかないのは実はこの点で、この間、ヒロイン同士は実に仲良く暮らす事になる。
俺としては「こんな馬鹿な」と思わざるを得ない。
なぜなら、そこには「嫉妬」も「駆け引き」もなく、ただ漫然と繰り広げられる和気藹々とした「団欒」だけがあったからである。
この人間性を欠いたストーリーがどうにも我慢ならなかったのである。
誤解の無いように付け加えておくが、キャラクター配置やキャラ自身の条件付けは悪くない。
特に主人公と、ヒロイン以外のキャラクターたちは良く纏まっていたと言えるだろう。
ただし、彼らが積極的に動いている感じはどうしてもしない。
これは、なんだかんだいってかなりやりこんだ上での結論なので、ほぼ間違いない考察である。

これがKanonに対する印象であった。

そしてAIRである。
最初にプレイした時の印象は「Kanonの延長線上」であった。
これが実はとんでもない間違いだというのはのちに書くが、まず最初に抱いたのがそれだったのである。
何故そう思ったのかというと、それは主人公が持つ「不思議な力」による所が大きく、また、ストーリー後半にて主人公が「ヒロインを想う」ことによってヒロインに(ある種の)救いを齎す事にあった。
また、あいも変わらずな「人間のキレイな一面」を強調したキャラ造形に、まんまと騙されていたのである。
つまり表面的な設定に騙されていたのであって、深い部分まで考察できなかった訳だ。
実に情けない事だが、前作「Kanon」に対する反発が、こんなところにまで影響を及ぼしていたのである。

これが自分でもおかしいと気が付いたのは、色々とサイトを巡った結果である。
どうも自分が読み切れなかったことについて研究されているものが多く、「これは俺の読みが浅かったか?」と思ったところから、もう一度プレイする事に相成った。
無論、物語の大まかな流れは覚えていたので、思い返してみて「自分の考えはどうやら浅かった」と考えたからこそ、再度プレイする気になったのだが。

そして出た最終的な結論は「Kanonの正反対」である。
まさに打ちのめされた気分であったが、同時に目が覚めたとも言える。

さて、どこがどう違うのか。
まず一番最初に目につくのは、「現実的な物語処理」という点にあるだろう。
俺はここでは一々「ネタバレ注意」なんてことは書くつもりはないので、いきなりバラすが、ヒロインたちに対する主人公の無力さは、これは特筆すべき事柄である。
何せ「常人とは違う力」を持っていながら、ヒロインが最も望む形での救いを齎してやる事ができないのだ。
唯一文句ナシとも言えるハッピーエンドを迎える、霧島佳乃にしても、あくまで主人公は佳乃のバックアップに過ぎず、彼女を「現実を認識でき、恐れずに立ち向かう」という意味での大人に導くだけである。
遠野美凪に至っては、現実から目を逸らさずに歩く事を教えるかわりに、彼女にとって一番大切な「妹」という存在を破壊する始末。
現実から逃げようと決意した彼女の話(所謂バッドエンドにあたる)では、全ての無力さを「自分と共にいる」ことを選択させる事で誤魔化し、キズを舐め合うのである。
そして、神尾観鈴に関しては、最早語るまでもない、まさに無力感の塊である。
このシナリオに至っては、主人公には出る幕すらなく、その位置付けは完全に「傍観者」のそれである。

だが、それが実に素晴らしい。
何故なら、現実は「全てを手にいれる」ことができないようにできているからだ。
何かを手に入れるため、自分が変わっていくため、人は何かを犠牲にする。
それは失わざるを得ない物であって、その覚悟が決まれば、誰でも迷わずに手放す事ができる。
そんな泥臭い、人間ドラマがこのゲームにはあったのである。
奇跡などというご都合主義ではなく、葛藤、決断、それに伴う痛みを感じることができるストーリーなのだ。
そこには諦めという文字は無く、替わりに前進していく力強さを感じることができる。
人間としての強さが、物語に満ちている。

更に特徴的なのが、主人公とヒロインの係わりが「恋」ではなく「家族の温かさ」という物を主題においているところであろう。
これも、前作とは随分と違った視点を齎せてくれる。

この物語では、各登場人物が実に人間らしい動きを見せてくれる。
背負った物がなんであれ、人間としての心の動きを忘れずに動き回っているのだ。
仮定ではあるが、ヒロイン同士に絡みがあれば、彼女たちは互いに嫉妬し、奪い合い、或いは傷つけあうこともあっただろうと思う。
そう思わせるだけの人間らしさが、この物語の登場人物たちにはあるのだ。

特にそれを感じさせるのが、正ヒロイン・観鈴の義理の母親である、晴子である。

物語を最後まで読まない限りはわからないものの、一見して彼女を評すれば、大概の人が「外道」とか「人でなし」とすら評するだろう。
実はその裏には彼女の深い想いがあり、結局は主人公では与えられなかった物を観鈴に与える事ができる。
彼女が紡いでいく物語りこそ、最も人間味に溢れ、且つ人間の限界を知る事ができるものである。
人が互いに与え合う物がなんであるか、それを考えさせてくれる究極に彼女は位置しているといえるだろう。

では、結局主人公は何であったのか。
それは、全ての「切っ掛け」であったのだ。
「空にいる翼を持つ少女」を求める旅は、彼の目的ではあったが、彼の全てではなかった。
彼は旅の間に得た物を、彼が知り合ったヒロインたちに、「人間として」与えていったに過ぎない。
そこには法術も奇蹟も無い、現実的な判断と葛藤を繰り返す人間味があるだけである。
ヒロインたちは、そんな主人公から得たものに動かされ、自分たちで苦しみながらも、前進していこうとするのである。

前作では決して見られなかった人間ドラマ。
泥臭いまでの現実性がそこにはあった。
それに気がつかなかった俺はまぁアホだった訳で、気が付いてしまえばこのゲーム、物語としては傑作であった。
しかし、最後にあたって、どうしても譲れない批判を2点だけ。

・エロが希薄すぎ、今更だけど。もっとエロエロにしてもらいたかった。例えば佳乃のバンダナ緊縛プレイとか、観鈴のどろり濃厚塗りたくりプレイとか、美凪の米まみれプレイとか。

・「青空」は絶対反則。いやまあ、音楽やってる身としては悔しい事に泣かされたから言ってるんであって、正確には批判じゃないけど。


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