聖戦士ダンバイン
「ガンダム」が戦争のリアルさを描いてから、巷のロボットアニメの主流はいかにリアリティを追求していくかということを主題に置くようになった。
それまでの所謂スーパーロボットアニメは「ロボレス」あるいは「ロボットプロレス」などと揶揄され、設定がリアリティを持たないものとして忌避された。
この状況下で放たれた傑作、それが「ダンバイン」だった。
原作・監督はガンダムを手がけた富野氏。
流石は一筋縄では行かないヒネクレモノである。
このアニメの特殊な点は、全盛期に入ったリアルロボット系の設定を必要最小限に留めた点にある。
そして、通常では思いもつかないファンタジーとリアルロボットの融合を目論んだのだ。
バイストン・ウェルという架空世界が現実世界に対する理想郷という形で綴られ、また地上とバイストンウェルを行き来する者が、実は非常に優れた戦士であるという設定も見逃せない。
そして、現実世界の平凡な青年である筈の主人公、ショウ・ザマは、バイストン・ウェルという理想郷に絶つ野心高き男、ドレイク・ルフトに「召喚」されて、彼の手駒として戦うことを余儀なくされるのだ。
地上とバイストン・ウェルを行き来できるその高い能力(作品中では「オーラ力(おーらちから)」と呼ばれる)故に、理想郷を乱す野望の化身、ドレイク・ルフトに訳も分からぬうちに利用されていく。
ましてショウの家庭は決して暖かいものではなく、現実に不信感を持っていた彼は、始めは疑問も持たずに戦う。
だが、やがて敵たちとの接触を経た彼は己の間違いを悟り、ドレイクの野望を阻止せんと戦う側に身を置くのだ。
その戦いは熾烈を極め、やがては地上を巻き込み、ついには全員が魂に帰ることによって「浄化」されて行く。
このアニメで描かれたものは、現実に不信を抱えた青年が、疑似家庭とも言える運命共同体と共にすごす事によって、精神的成長を遂げていく姿だった。
地上を捨てて理想郷に降り立ってまで、尚も戦いを止めない愚かなる人類たち。
その愚かしさのなかで、確かに成長していくものもある。
この作品は、地上という停滞した世界と混乱する理想郷とを巧みに織り交ぜながら、その一点を見事に照射するのだ。
混乱の最中にいるからこそ、「変わらなければならない」ことを悟り、地上の人々に訴えかけるショウ。
そのショウを、精神病者扱いにして嘆く母親。
一方に「変わらない」姿があり、一方に「変わりすぎた」姿がある。
ここから、富野監督の普遍の主張、「人類の変革」を読み取る事が出来る。
更に、ドレイクたちも単なる「悪役」ではない所は大いに注目すべきだ。
確かにドレイクは野望の鬼である。
だが、その野望は決して「己を頂点に立たせる」というものではなく、「この世界を変えなければならない」というものなのだ。
ガンダムにおけるギレン・ザビのような迸るカリスマこそ薄いものの、ドレイクもまた、単純ならざる人物なのだ。
こういったお得意の演出はしっかりと押さえながらも、一方ではメルヘンチックにも、ショウ達のリーダーの恋人がドレイクの娘であるという設定をちりばめ、ファンタジックな話作りを心掛けている点も注目だ。
御伽噺でありながらも、そこに重厚な設定を配した手腕は流石と言わざるを得ないだろう。
結局、最後には登場人物の99%が魂となって消えて行く。
これは決して悲しい事ではない。
地上に残された人々はこの戦いを目撃し、確かに変わっただろうから。
人は、何かを失って変わる。
富野監督の主張の核心は、常にそこにあるのだ。