ダライアス


もしもゲームセンタで、「本物」の戦闘機に乗ってシューティングを楽しめたら・・・。
少年の頃、誰もが(ゲーム野郎なら)一度は抱いたであろう夢。
それが、こんな形で実現するとは、俺は思ってもみなかった。
それが、タイトーの送り出した「最強のシューティングゲーム」、ダライアスである。

ダライアスが画期的だったのは、その3画面構成によるモニター構成だけではない。
実に細かいところに、あらゆる配慮が配られていたのだ。
まずはサウンド。
大画面構成にする事により、独立したスピーカを備えた筐体は、座っているだけで凄まじい重低音を演出し、あたかも「本物のコックピット」にいるような錯覚を起こさせた。
ゲームバランスも良い。
古き良き時代の、油の乗ったシューティングの難易度で、しかもクリアするコースを選ぶシステムにより、自分の判断で難易度を選択できたのである。
そのコース一つ一つが独自の演出を持っていて、何度でも遊べる、全く飽きない配慮が成されていた。
敵のデザインも、伝説となるほど秀逸だった。
特に、各ステージの最後に控えるボスキャラは、シーラカンスからタツノオトシゴに至るまで、実に不気味且つ、どこかエレガントな海棲生物の姿をしており、始めて見た時にはあまりのショックに寝込むのではないかと思ったほどだった。
自機のパワーアップも極めて合理的で、始めはただのバルカンだったものが、敵を貫通できるようになり、最後は背景を貫通していくものになる。
自機を守るバリアも、徐々にパワーアップしていき、最後には背景からも自分を守ってくれるようになる。
音楽も良かった。
独立しての鑑賞に堪えられる、極めてレベルの高いものが配されており、良く我々はそれを、音楽室を占領してはピアノなどで演奏して楽しんだものだ。
大画面の特徴を生かし、迫力と演出に重点を置いたシューティングゲーム、それがダライアスだった。
ゲームをプレイしている最中、俺は確実にその世界へと魂を飛ばし、コックピットの中で敵と戦っていたのである。

時代はやがて格闘ゲーム全盛の時代に入り、シューティングゲームはその勢力分布図を狭めていき、よりコアなファンを求めて、ただただ難易度の上昇だけに終始する事になる。
確かに、昔から難易度の高さをウリにしたゲームもあった。
タイガーヘリ〜究極タイガーに至る流れなどはその顕著な例であり、最近、ゲームセンターにおいてある鬼のような弾数のゲームなどは、その流れの正当な嫡流と捉える事が出来るだろう。
だが、俺はそんなゲームをやる奴に対して一言言わずにはいられない。
「おまえら、そんな事やってて、楽しいか?」と。
余計なお世話なのは百も承知だ。
だが、シューティングと言うものは、ただ弾を避けてただ弾を撃つだけのものだっただろうか?

思い出してほしい。
「ゼビウス」をやっているとき、どんな心を持ってプレイしていたのかを。
思い出してほしい。
「グラディウス」をやっているとき、どんな心でゲームを楽しんだのかを。
そう、そのときに我々は、全ての想像力と共に、ゲームの世界へと魂を羽ばたかせていたはずなのだ。
機械的な操作ではなく、心の底までゲームを愛したはずなのだ。
今のゲームセンターを見るとき、そこには「愛」が無いように俺は見える。
機械的な操作と機械的な結果。
それだけがゲームの全てだと言うなら、あまりにも悲しいではないか。

ゲームとは、楽しむためにやるはずだった。
楽しくないゲームなんてモノは、ゲームとは呼べないものだ。
そういう意味では、俺のゲームセンターはとっくの昔に滅びた。
躍起になって格闘ゲームの技を習得したいとは思わないし、インチキな楽器をいじってホントにギターが弾けなくなるような音ゲーをやろうとも思わない。
古き良き時代が滅びた今、では新たな希望はあるのかと言えば、答えはNOである。
そんな郷愁を込めて、「最後の傑作シューティング」、ダライアスに言及してみた。
もうあの時代は帰ってこない。
なら、せめて思い出を美しいままでとっておこうじゃないか。

夢を夢として遊べた時代の傑作、それがダライアスだったのだから。


戻ろうよ