グラディウス


今更声高に主張するまでもなく、嘗てゲームセンターの主流はシューティングゲームだった。
華麗なテクニックを誇るヤンキーどもが溢れ返り、各々の持つ技量を存分に発揮しつつ、ギャラリーに感嘆の溜息をつかせたものだ。
我が友人T君などは、一日中、開店から閉店まで「ギャプラス」をワンコインでプレイし続け、周りから「ギネス認定だ」などという賞賛を浴びた事がある。
不健全といえば不健全極まりないが、これこそがゲームセンターのあるべき姿だったような気もするのは、ひょっとすると懐古趣味というものだろうか。

さて、「グラディウス」である。
まさかこのゲームを知らない人間がこの世にいるとは思えない。
プレイしたことがなくとも、名前くらいは知っている…と言うか絶対に知っていなければならない。
もし知らない人がいるなら、その人とは絶対に友達になりたくないタイプと言っても良い。
日本の総理大臣の名前を知らないのと同列で恥ずかしい話だと思うぞ。
余談は置くとして。
爆発的人気を得たこのゲーム、何処がそんなに受けたのかという事を俺なりに考えてみたい。
この当時、ゲームは演出系の黎明期であり、ド派手な演出が目を引くものはまだなかった。
既にパワーアップという概念は存在していたものの、それはあくまで「パワーアップ」だけが目的であり、それに伴う合理的な説明をイマイチ欠いていたものが多かった。
また、ゲームバランスを重視するあまり(重要な事ではあるが)必要以上に強力なパワーアップをさせないように配慮されていた点も考慮すべきだろう。
つまり、パワーアップ試行錯誤の段階であり、各社ともあまり大胆なものを取り込んだり作り出したりする事を躊躇っていた節もあった。
ここに登場したのが「グラディウス」であった。
このゲームで最も斬新だったのは、「自機と同じ性能を持つ味方」が増えるところであった。
「オプション」の存在である。
自分自身が一気に5体に分裂するようなものである。
攻撃力の増加は、まさに目を見張るものがあった。
それまでのゲームの着眼点が「自機をパワーアップさせる」事だったのに対して、このゲームでは「自機を増やす」という観点で、結果的なパワーアップを図ったのだ。
これには、コナミが先行して発表していた「ツインビー」というゲーム(これも名作だ)における実験が良好だったことが大きな影響を与えているものと考えられる。

グラディウスにおけるパワーアップは、他のゲームのパワーアップとは一味違っている。
他のゲームが、武器に対応した「ユニット」を集める事によってパワーアップするのに対し、グラディウスではその制限を外して、集めたユニットの数で、好きな順番でパワーアップをユーザーが図れるようにしたのだ。
これも大きな特徴であった。
更に、各種登場機体のデザインに非常なエネルギーを費やしたところも特筆だ。
自機「ビッグバイパー」のメカニカルなデザインは大いにユーザーの目を引いたものだ。
一方では薄気味悪い「触手」や「体細胞」なども存在し、世界観としては一種独特なものを構築していたところも注目に値するだろう。
特に、後々までコナミの特徴となった「モアイ」は、間違いなくゲームセンターというものに衝撃を走らせた。

更に、このゲームでは「当たり判定」の操作を大胆に行い、「エネルギー余波」を演出したところも出色。
敵に命中していないにもかかわらず、余波を食らって爆発していく敵を眺めているのは爽快だった。
これなどは「ゲームバランス」を壊すか壊さないかの一歩手前の選択であり、コナミにはいくら賛辞を送っても惜しくはないだろう。

そう、このゲームでは大胆な改革に伴った絶妙のゲームバランスが取られていたのだ。

まさにギリギリのラインだった。
そのライン上での開発者達の鬼気迫る攻防を考えると、まさに名作の名に相応しい。
敵の弾は今までのゲームと比べて圧倒的に多い。
普通では避け切れない。
そこで、敢えてマシンスペックを超えた処理によって画面をスローダウンさせる事により弾避けを楽にしたところなどは、まさに逆転の発想である。

開発陣が全力を注いで「今までと違うものを作ろう」としたこのゲーム、まさに歴史に残る傑作となった。
ゲームの開発とは戦いである。
より大胆に、より斬新に、そしてより面白く。
ゲームを開発する意義はそこにある。
このゲームの登場により、ゲームセンターは巨大市場としての道を歩み出す事になる。
それも、渾身の力作であった「グラディウス」の存在があればこそであった。

歴史とは、全力で戦った者達の記録である。
数ある傑作の中でも、燦然と輝く超傑作。
それこそが「グラディウス」である。
歴史に名を残すべく戦った開発陣に敬意を表しつつ、言及してみた。

願わくば、今のゲームセンターにも、誇り高き戦いがあらんことを。


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