FLASH
「鉄拳3」という格闘ゲームに出てくる、「ゴン」という恐竜の子供みたいなキャラをご存知だろうか?
あのキャラはもともと漫画のキャラであった。
この無音声動物擬人的ギャグマンガの作者・田中政志がかつて描いていた漫画こそ、今回取り上げる「フラッシュ」と言う漫画である。
まず最初にこれだけは述べておかねばなるまい。
この田中政志という人は、自分の漫画にスクリントーンを使わないのだ。
全てペン書き。
また、セリフも極力使わずに画力のみで引っ張る漫画を書く人なのである。
恐らく、今日本でこの人の画力を上回る漫画家は片手の指に満たないのではないだろうか。
さて、このフラッシュという漫画、アホである。
それも半端じゃなくアホである。
主人公は凄腕の賞金首ガンマンなのだが、そんな設定はどうでも良い、と言うか作者自体が最後にはどうでも良くなっている。
最初の頃は額にあった十字傷も最後には無くなっちゃうし。
つまり、いい加減の極みで描かれながらも抜群に面白いという、極めて高度なエンターテイメントなのである。
一貫して描かれるのは、主人公フラッシュがカネと女に汚い所為であらゆるトラブルに巻き込まれるかあらゆるトラブルを巻き起こすという、それだけである。
そのルーチンワークが最高である。
メッセージもクソも無い、ただただ「世の中カネとオンナ」、それだけ。
ここまで開き直ってエンターテイメントに徹した漫画も珍しい。
俺がこの漫画を高く評価するのは、実にその点である。
最近の漫画の体たらく、俺に限らず多くの漫画読みがそう思っているのではないだろうか。
何故そう感じるのだろうか。
それは恐らく、「楽しみ」に優先して描かれている物が多いからだ。
それがメッセージであったり哲学であったり信念であったり。
さり気無くそれを匂わせるのなら、それは素晴らしいものにもなるだろう。
それは「漫画」という極上の料理に添えられた、隠し味の調味料となるからである。
だが、それが露骨過ぎれば単なる嫌味である。
そういうニオイを感じる度に俺はウンザリする。
いつから漫画は「文学」になったんだ?
漫画で文学を描こうとするほど胡散臭い物は無い、と俺は思う。
何故かというと、文学とは情景描写も立派に含んだ文字の羅列だからだ。
画によって情景を表現する手段を持っている漫画が、どうして文学と同じ土俵で語られねばならないのか。
漫画の完成度の高さや、漫画自体の物語性の高さと文学性は全く別の話だ。
混同する事自体が間違いだ。
漫画と文学は両者とも同格であって、全然別の方向を目指す表現手段なのである。
これは書き手の問題というより、読み手の問題だ。
漫画に文学性を求めるアホウが横行したからこそ、こういった胡散臭い価値観が蔓延している。
漫画は「文学じゃ表現できない」素晴らしい、全く別の手段なのだ。
翻ってフラッシュ。
いやもう、漫画の本道「エンターテイメント」一直線である。
「男と女の会話の基本は『やらせろ』『いいわ』だぞ」
この頭悪さ、最高である。
とにかく主人公フラッシュは色キチガイ。
カネに目が無く、そのためならどんな危険も平然と犯す。
これだけ主人公がアホであるから、話のほうも凄い。
ズタズタに傷ついた主人公が傷を癒している最中にやって来て、精を搾り取っていくオンナ。
彼女曰く、
「大事な所から回復するのが真の男、さすがね」
万事こんな調子である。
更に、終わりの方では「ゴン」の雛型ともいえる「ジュニア」という怪物を登場させる滅茶苦茶ぶり。
最後には主人公フラッシュは「交尾の完成系」を求めてジュニアと別々の道を歩くのだった!
普通の漫画なら確実に破綻している。
だが、この漫画は始めから破綻しているので、ただ笑えるだけである。
これこそが漫画ってものだろう。
笑って笑って笑い尽くして、読み終わったらなにも残らない。
このB級感こそ漫画を読んだ時の爽快さではないだろうか。
漫画というのは「読んでいて楽しい」という物であろう。
無論笑いが無くても良い、感性に合っていればシリアスな物でも楽しいのだから。
ただ、何か深遠なイメージがあるだけってのは、漫画としては失格と俺は思う。
漫画とは最高の娯楽であり、人生を彩る物なのだから。
そんな娯楽の中の娯楽、田中政志の「フラッシュ」は……実は既に絶版しているのであった(涙)。