考える侍


時代劇を漫画で表現した場合、色々な意味で歪みが出てくるものだ。
無論それは書く方も読む方も理解している歪みであって、ある程度までは許容できるからこそ、いまだに描かれ続けているジャンルだと言えよう。
例えば「無限の住人」など歪みの大きさから言ったらかなりモノであるが、これを捩じ伏せるだけの面白さがある。
その「面白さ」はどこにあるかと言うと、時代劇の場合、どれだけ世界観の中にオリジナリティをぶち込めるかにあると思う。
つまり、どれだけ上手く嘘をつけるか、そこがポイントだと思う訳だ。
仮に、綿密な時代考証の元に正確な時代劇を構築したとして、その漫画に意味はあるかと言うと、俺は無いと思う。
それはあくまで「歴史の教科書の漫画版」に過ぎないと思うからだ。

さて、ここで取り上げる「考える侍」は、その嘘を非常に極端に描き、それをウリにした。
上手く嘘をつくのではなく、嘘を嘘と無理矢理認識させ、それを思い切り押し通した漫画なワケである。

主人公・富嶽十蔵の描かれ方は、基本的には「完全無欠のスーパーマン」である。
どんなピンチであれ、決してクールで不敵な笑みを絶やさず、そのキャラクター性の高さは、漫画世界の中でも群を抜いたものを持っていると言えよう。
彼の行く先には数々の「独自の世界」を持った者がおり、彼とぶつかり合う事で新たな世界の可能性を知っていく。
その中で、彼は常に「絶対的な影響者」であって、彼が影響を受ける事は無い。
正に完全無欠である。
その思想の源流は、西洋における「プラトン」や「ソクラテス」などの思想家のそれである。
つまり、はっきり言ってしまえば、存在自体が胡散臭い男なのである。
それを「言葉遊び」としてのオチに集結させ、独特のキャラに仕立て上げた面白さが、この漫画の注目すべき点であろう。

さて、侍が出てくるからには、漫画の中には当然戦闘するシーンも出てくる訳だ。
その描き方がまた「洒落」と「伊達」である。
つまり、最初から「リアリティ」としての時代考証など完全放棄しており、そこにあるのは「思想対決」とも言うべきものなのだ。
これはかなり異色な描き方であって、絵柄と相俟って非常に浮世ばなれしたものを感じさせる。
そして、それこそがこの漫画の真骨頂なのである。
本来、見せ場として機能する筈の戦闘シーンを、敢えて「動き」ではなく「思想」として見せていく訳だ。
何と言うか、斬新とも無謀ともつかない試みだ。

はっきり言ってしまえば、その雰囲気に馴染めない時点で、この漫画はアウトである。
しかし、馴染んでしまえば、その世界観の中にどっぷり漬かって出られなくなる漫画でもある。
この絶妙のバランスは、中々他ではお目にかかれない。
気が向いたら、なんとなくでいいから目を通しておいて頂きたいと思う漫画である。


戻る