〜ジャッジ・クリムゾン〜
優しい死神

The 5th


ジャッジ・クリムゾン
〜優しい死神〜


(14)〜悪夢の果てに〜
 目の前に広がるのは闇だった。誰もいない闇の中で、刹那は呼吸を荒
げていた。物陰にじっと潜み、息を殺す。緊張が体を支配し、自然と呼
吸が荒げてくる。
 手には良く馴染んだ銃が一丁。ずっしりと手に伝わる重さは、幾分か
心を楽にしてくれる。仕事をするのにも、馴れた武器でないと不安にな
る。獲物を狩るにも、万全の体勢が必要だ。
 月明かりが刹那を照らし出す。その姿は、今の刹那の容姿ではなかっ
た。まだ幼さの残る顔立ち。そして、体も一回り、二周りは小さかった。
暮内刹那、13歳。まだ、彼は数年先にある出会いと悪夢を知らない。
「はぁ・・・はぁ・・・」
鼓動が早くなるのを押さえきれない。もう一度、手にした銃を確認する。
子供の手には似つかわしくないほどの大きさと重さ。改造のリボルバー。
銃弾は8発。シリンダーを回して、再びおさめる。
 これで、いくつ目の仕事になるのだろうか?数え切れないほどの仕事
を彼はやり遂げてきた。死にそうになったこともある。だが、現に彼は
こうして、これから始まる仕事に取りかかっているのだ。それが、彼が
生きているという証でもあった。
 彼の目線の先に、灯りがともった。ターゲットの乗った車が来たのだ。
刹那は銃を確認して、ゆっくりと射撃体制に入る。小さなその背中を体
の後ろにある貨物に押しつける。
 そして、手にした銃をゆっくりと持ち上げて、車の窓が射線上にくる
ようにする。エンジン音が聞こえてくる。
「はぁ・・・はぁ・・・」
鼓動は更に早くなり、体が動かなくなる。人を殺している。そのことは
わかっている。自分のやっていることを理解してもなお、彼はさらにそ
の手を血に染めていく。
 車のライトが次第に大きくなり、刹那は集中する。一瞬が永遠に引き
延ばされ、彼の体は銃の一部となる。引き金に指をかける。これで、い
つでも撃てる。
 車が刹那の横を通り過ぎる。刹那には見えていた。スピードを上げて
いるはずの車の動きが、非道く緩慢に見えてそして、彼は指を引いた。
 聞こえた銃声は一発。サイドガラスが血に染まる。真っ赤な血の花が
咲く。確かな手応えがあった。車は急ブレーキを踏んで、蛇行する。
「うわっ!」
緊張が解けて時間が戻されるが、刹那はその瞬間に一番やってはいけな
いことをしてしまった。
 銃の反動が彼の小さな体を後方へと吹き飛ばした。背を押しつけたい
たのにも関わらず、彼は貨物の壁を破ってその背後にとばされていた。
 次ぎに気づいたときは、彼は泣いていた。自分の手を見つめながら彼
は涙を流していた。耳に聞こえるのは、破壊の音。炎が目を焼き、崩れ
落ちる家屋の音が聞こえてくる。
 刹那の体はまた違っていた。少年時のものよりも大きい。現在の刹那
の体よりも少しだけ小さいその体を抱きしめるように、彼は泣き崩れた。
「刹那!刹那!!」
 彼の肩を掴むものがいる。顔を強引に向けられる。そこには、狗狼の
姿があった。茉莉の姿もある。彼等は非道く悲しみを浮かべながらも、
決意に満ちた表情で刹那を見ていた。
「狗狼・・・茉莉・・・」
 嗚咽の合間に仲間の名を呼ぶ。彼等は刹那を哀れむような視線を見せ
たが、すぐに厳しい表情に戻る。
「立て!立つんだ!!」
「でも・・・」
狗狼が手を引いて立たせようとするが、刹那は頭を振る。
「敵がすぐそこまで来ているのよ・・・」
痛切な茉莉の声。それでも刹那は立たなかった。
「まだ・・・まだ紅葉がいるんだ!街の中に・・・・・俺は彼女を助け
 なきゃ・・・助けに行かなきゃいけないんだ!!」
 訴えるような刹那の声に、茉莉も狗狼も口をつぐんだ。茉莉が何かに
気づき、振り向き様に手にしたマシンガンを掃射する。
 くぐもった声が聞こえると、黒服に身を包んだ男達が倒れていく。
「ここも気づかれたの!?」
愕然とする茉莉の声に、狗狼は再び刹那の手を取った。
「刹那。ここから出なくてはならない。もう、この場はワシ達には安全
 と言えないのだ」
「でも・・・」
刹那の声もそこまでだった。狗狼が刹那の手を取り、強引に立たせたの
だ。鈍い痛みが腕に残る。刹那は力の入らない足で、なんとか自分を支
える。そうするのがやっとだった。
 視界が暗転する。次ぎに気づいたときには、彼は引き金に指をかけて
いた。燃えさかる街を見下ろす小高い丘の上で、彼は寝そべるようにし
て銃を構えていた。
 心には痛みがあった。失った者の大きさが悲しみとなって彼の心を満
たしていた。後ろで狗狼と茉莉が呆然と街を見ているのがわかる。
「他の者達との連絡は?」
「・・・ダメだわ。無線が使えないの・・・」
 絶望と一緒にため息が聞こえる。重々しい沈黙が彼の心に更なる悲し
みと絶望を与えている。
 燃えさかる街をスコープ越しに眺めて、刹那の脳裏には様々なことが
思い浮かんでいる。それらも、あの炎に焼き尽くされ残らない。思い出
の場所も、毎日を充実させたくれた場所も、人達も全てが炎に飲み込ま
れたのだ。
「・・・・刹那。やってくれるか?」
 重い狗狼の言葉に、刹那は頷いた。
「So Long・・・」
 何に対しての言葉かは、刹那にしか分からなかった。彼はゆっくりと
指先に力を込める。引き金が引かれた。
 聞こえた銃声は一発。
 それきりだった・・・・・

(15)〜非日常への朝〜
 身を起こす。心地よい風と日の光。刹那は呆然として、窓の外を見つ
めた。時計を見ると、六時。いつもより早い時間に目が覚めてしまった。
背中が冷たい。汗をかいているようだった。
 彼はベッドから降りると、床に立ち上がり着ていたシャツを脱いで、
椅子にかける。机の上にある鏡が、今の彼を映していた。
「・・・またあの夢か・・・俺はいつになれば救われるのだ・・・・?」
 誰にともなく呟いたその言葉は、朝の風が吸い込んで流してしまった。
胸にかかっているペンダントを手にとって開く。先がロケットになって
いるペンダントは、刹那の願いを聞き入れて中にある写真を彼の目に映
しだした。
「・・・紅葉」
写真と、思い出の中でしか会うことのないかつての恋人に対して、刹那
はその名を呼んだ。写真の中の彼女は、穏やかに微笑むだけであった。
  コンコンとドアがノックされ、刹那が答える前にドアは開いた。
「おはよう。刹那・・・・」
と、顔だけ覗かせた茉莉はすぐ様にドアを閉めた。刹那が顔を向けると
開く前の姿でドアがある。不審に思い、刹那はドアを少しだけ開けて外
の様子を伺ってみる。
 茉莉がそこにいた。今日は喫茶「夢幻」で働くつもりなのだろう。ウ
ェイトレスの制服を着て、その場に立っていた。
「・・・茉莉?」
 茉莉は顔を赤らめて、下を向いている。刹那が不審に思い、ドアを完
全に開けようとしたが、それは茉莉の手で押さえられた。
「おい。どうしたんだよ・・・」
「・・・た」
茉莉の声が小さく刹那の耳に入る。
「?」
「だから!下よ下!!」
と茉莉が下を向きながらも大きな声でいい、刹那は視線を自分の腰にお
ろして・・・ドアを勢い良く閉じた。
 刹那は下にトランクスだけであった。慌ててズボンをとって、はく。
「はっきりと言えよ!」
「あ、あなたがそんな格好でいるんだもん!」
ドアを間に二人でしばらく言い合いをする。
 やがて、新しいシャツを着てズボンをはいた刹那がドアを開ける。茉
莉はまだ顔を赤らめているが、それでも刹那の顔をしっかりと見た。
「お、おはよう・・・刹那」
「ん・・・ああ・・・」
先程の騒動で二人とも変な挨拶になってしまう。
「何を騒いでいるかの」
と、騒動を聞きつけて狗狼が刹那の部屋の前にやってきた。いつもの普
段着ではない。今の狗狼は白衣を着ており、さながら老医師のように見
える。これで、薬瓶でも持っていれば誰もが医者だと思うであろう。
 事の次第を聞いた狗狼は、爆笑した。
「ふぁっはっは!そんなことで騒いでおったのか」
腹を抱えて笑っている狗狼に対して、刹那は憮然として言い返す。
「そんなに笑うなよ・・・第一、茉莉がいきなりドアを開けるから」
「あなたが戸締まりをしっかりとしてないからでしょ!!」
 狗狼は笑いをこらえながら、二人の肩に手を置く。
「今更何をいっておるかの?二人とも子供の時は風呂まで一緒に入って
 おったし、寝るときも一緒だっただろ?」
「う・・・あれはガキの頃だったんだ!」
「そ、そうよ!」
顔を二人して赤らめて、狗狼に反論する。狗狼はいまだに笑っている。
 刹那の顔はますます憮然としている。ややすねているのかもしれない。
刹那の父親代わりとして刹那と一緒の時間を過ごしてきた狗狼にはわか
っている。そっぽを向いて、唇を尖らせるのは刹那のクセである。それ
もすねている時の。子供のいない狗狼にとって、刹那は自慢の息子と同
じなのである。
 茉莉にしても同様である。狗狼にとって、刹那と茉莉は姉弟であり、
かけがえのない愛すべき家族なのである。束の間の幸せ。彼等が普通の
青年、女性であるならば・・・この日本という国に生まれていれば、普
通に享受するであろうこの幸せの時間を、狗狼は胸の奥に刻み込んだ。
「ところで、多岐川は?」
 刹那が表情を引き締めて狗狼に訊く。狗狼が多岐川の尋問をしていた
のはわかっていた。
 昨晩の謎の狙撃手との戦闘で、多岐川は銃弾を受けた。刹那が「夢幻」
にたどり着いたとき、多岐川は意識を失っていた。狗狼がその後を引き
継いで、治療とそして尋問をしていたはずなのだ。
 狗狼は刹那の問いに対して、ゆっくりと首を横に振った。
「まだまだじゃ・・・ただ」
「ただ?」
と茉莉が問い返す。狗狼は白衣を脱いで、重々しく口を開いた。
「治療の合間に、少しじゃがわかったよ。今回の裏にいる者達が」
「話してもらおうか?」
と刹那が言葉を催促すると、狗狼は
「立ち話もなんじゃから、朝食でも食べながらにしよう」
と階段を下りていってしまった。
 コーヒーにトースト、スクランブルエッグという簡単な朝食を用意し、
席に着いた狗狼は両手を組んで話し始めた。
「今回わかったことは少ない。だがそれでも貴重な情報だ」
「何がわかったんだ?」
「そう焦るな。まず、我々が追っている高校生の失踪。これはどうやら
 組織ぐるみで行われているらしい」
狗狼の言葉に刹那と茉莉は頷く。狗狼はコーヒーを口に運んで、言葉を
続けた。刹那も茉莉もコーヒーを飲んで、喉を潤す。
「そして、高校生達が失踪するのは必ず校内ということ」
「なんだって!?」
 刹那が椅子から立ち上がる。刹那はたんに美姫のお守りとして学校に
行っているわけではなかった。周辺のチェックはもちろん、全生徒全教
員の素性までを調べ上げ、さらには校内にも調べを入れていた。
 ところが、事件が校内で起こったとなれば刹那は気が気でいられない。
「座れ刹那。何もお前を責めているわけではない。だが、これは多岐川
 が漏らした情報だ。信じてもいいだろう」
渋々と刹那は椅子に腰掛けた。茉莉が狗狼のカップにコーヒーを注ぐ。
「多岐川は直接に関与しているわけではないようだ。ヤツは依頼された
 薬品を密輸して、渡しているだけみたいだ。多岐川は、その薬の儲け
 とその何者かの儲けからマージンを得ているらしい」
多岐川はそこまで言うと、再び気を失った。と狗狼は伝えた。
「とりあえず、ワシ等ができることは今まで通りしかない。刹那。天都
 美姫の監視を頼むぞ」
「わかっている」
憮然として刹那は答えた。彼が監視している中で事件が起こっている。
それが刹那にとってはショックだったのだ。
(どうも、この仕事に入ってから調子が変だ・・・なぜだ)
刹那自身、調子がおかしいと思っている。それが、なぜなのか全く分か
らないのだ。
「刹那」
茉莉が声をかけ、刹那は考えから引き戻された。
「なんだ?」
茉莉は無言で時計を指した。いつの間にか、時計は8時を回っていた。
「ち、遅刻だ!!」
刹那はダッシュで自室へと向かっていった。その姿を見て、狗狼も茉莉
も苦笑していた。狗狼が目線で合図をし、茉莉が微笑む。
 そして、茉莉も自室へと足を伸ばしていった。

(16)〜日常と非日常〜
 エンジンが高らかに鳴り、一台の車が道行く生徒達の目を引く。神代
高校の正門手前で、その車は止まる。好奇心旺盛な生徒達が寄ってくる。
真っ赤なスポーツカー。それも外車ともなれば、中からどんな人物が出
てくるのかと胸を膨らませている。
  ガチャ・・・
 ドアが開き、スポーツカーの中から人が出てくる。生徒達の期待は最
大にあがって───────出てきた人物を見て落胆した。
「おや?皆さんどうしたのですか?」
のんびりと刹那は注目している生徒達に声をかけた。生徒達は落胆し、
ぞろぞろと校門へと入っていく。刹那の頬がぴくぴくと痙攣する。
(お、俺が出て来ちゃいけないのかよ)
引きつった笑顔で、刹那は生徒達を見ている。
「あら。いけないじゃないの刹那。あなたの教え子達が残念がって
 いるじゃない」
と運転席から女性が出てくる。落胆していた生徒達が再び車の前に集ま
り出す。男子生徒達は「おお!」と感嘆の声を出し、女生徒達も「綺麗」
と憧れの混じった声を出す。
「いつも弟がお世話になってます。皆さん」
茉莉の声は生徒達の歓迎の声で迎えられた。
(こ、この差は一体・・・)
刹那は考え込まずにはいられなかった。茉莉は笑顔で生徒達の歓声に答
えている。刹那は周りの反応を見ていた。自分と茉莉への反応の違いを。
(俺、やめようかな・・・)
という考えまで浮かんできた。
 表向きは茉莉と刹那は姉弟ということにしている。その方が何かと都
合がいいと判断したからだ。車の影から茉莉は刹那の尻をつねった。生
徒達から死角となっている場所からの攻撃に、刹那は顔をさらにしかめ
た。茉莉に視線だけ向ける。
(痛ぇな。何をしやがる!)
(ほら、噂の娘が来たわよ)
茉莉のアイコンタクトで、刹那は美姫が登校してきたのを知った。
 美姫は外見はいつも通り明るく振る舞っているが、刹那や茉莉のよう
な人間から見てみれば、明らかに無理をしている顔だった。
(何があったのかしら?)
(さあ?俺に分かる分けないだろ?)
「刹那先生おはようございます!」
やけになっているように挨拶をされて刹那はとまどった。
(あんた、もしかして彼女に変なことでしたの?)
茉莉が不審な目つきで刹那を見る。刹那は「絶対にそれはない!」とい
う合図をする。
「先生。綺麗な方ですね。朝からラブラブなことでいいですね!」
どうやら、ただ単に妬いているようだった。茉莉は微笑むと、
「あなたが天都さんね。私は刹那の姉、茉莉というの。いつも弟がお世
 話になっていますわ」
と挨拶をし、手を差し出す。美姫は名指しで自分が言われたことに驚い
たが、それでも茉莉の手を握り返した。
「え!?お姉さん?え、えと・・・あの・・・こちらこそ・・・その・・・
 先生にはご指導いただいてます・・・」
としどろもどろに答えた。茉莉は微笑むと、車に戻った。
「もう、寝坊しちゃだめよ。刹那」
と言うが早いかエンジンをかけて去っていった。
 生徒の爆笑に刹那は顔を赤面させた。でっち上げとはいえ、恥ずかし
かった。そして、心の中で固く誓う。
(絶対に許さんぞ・・・・茉莉!!)
「先生」
と、美姫の声がして刹那は我に返った。野次馬の生徒達は大半が校舎に
向かっており、ほとんど二人だけという状態だった。
「な、なんでしょうか?天都さん」
「ちょっと、お聞きしたいことがあるので、お昼休みにでも研究室にお
 邪魔してもいいですか?」
「相談事ですか?私に」
「はい」
美姫の声は真剣だった。それだけに、刹那は何かあったのかと思い、
「わかりました。それでは、昼休みに研究室に来てください」
と答え、職員玄関に向かった。
「天都さん。急がないと遅刻しますよ」
刹那の声に、美姫は言葉を返さなかった。

 彼女は少しだけ機嫌が悪かった。夢見が悪かったのだ。忘れたくても
忘れることのできない悪夢。あの時以来見るのは久しぶりだったが、そ
れでももう見たくはない悪夢。
 背中の傷がうずく。なぜ?そう彼女は思う。なぜ、今になって傷がう
ずくのか。そしてあの夢を見るのか。触れられたくもない過去を人に見
られたようで、彼女は落ち着かなかった。
「先生。楓先生」
と呼ばれ、顔を上げる。そこには見慣れた保健委員の顔があった。
「あ、あらどうしたのかしら?」
「うちのクラスの真田くんが足を階段でくじいちゃって・・・」
「あらあら大変ね。先生に見せてごらんなさい」
心の奥にある不機嫌をしまい込み、彼女は自分の仕事に戻った。

「失礼します」
と、昼休みを伝えるチャイムが鳴ってきっかり3分後。美姫は社会科研
究室を訪れていた。
 刹那は丁度昼食を食べようとしていたところだった。狗狼が作ってく
れる弁当だ。彼はそれが入っているバスケットを慌ててしまう。まさか、
こんなに早くくるとは思わなかったのだ。
「どうぞ」
と刹那が椅子を勧めると、美姫はゆったりとした動作で腰掛けた。
 幸い、他の教員の姿はない。美姫は研究室の中を見てそう思う。
「それで、私に聞きたいこととはなんでしょうか?」
と学校にいるときは絶やさない微笑みで、刹那は聞いた。
「・・・・・・・・・」
美姫は答えなかった。黙って刹那をじっと見つめている。
「あの。天都さん?私の顔に何か着いていますか?」
「先生」
「はい?」
美姫は意を決したように口を開いた。
「昨晩。私と会いませんでしたか?」
内心、刹那は冷や汗をかいた。昨晩のことは美姫には見られていないは
ずだった。尾行してきた美姫を巻いて、そして仕事に取りかかったはず
だ。自分の正体に気づくはずもない。
「い、いえ。私は昨晩は家にいたもので・・・それに、昨晩って言って
 も何時くらいですか?私だって時間によっては外にいますよ」
「深夜です!終電が行くくらいの時間」
 美姫は拳を膝の上に置いて詰問した。
「もしかして、新宿にいませんでしたか?」
「あのですね・・・天都さん」
「昨晩。黒い服を着て、私から逃げてませんでしたか?」
「いや、だからですね・・・」
「サングラスをかけて、真っ黒なコート着てませんでしたか?」
ほとんど尋問である。刹那は内心舌を巻いた。
(聞きたいこととは、よりによって昨日のこととは)
「答えてください!」
 ずいっと美姫が詰め寄ってくる。刹那はそれにあわせるように身を引
く。刹那が引けば引くほど美姫は詰め寄ってくる。よりによって、飯を
食べようとしていたため、髪の毛に隠している小型通信機の電源も落と
してしまっている。刹那は一人でこの場を切り抜けなければいけなかっ
た。なんとかして電源を入れねば・・・
「どうなんですか!先生!?」
「い、いや・・・あのですね」
「答えてください!」
あまりにも真剣な目つきに押され、刹那はうっかりと口を滑らせそうに
なった。意識して口を閉ざす。
「ち、ちなみにもしも私がその、君の言うコートを着ていた人物ならど
 うするのですか?」
質問を逆にしてはぐらかせようとしたが、美姫はその手には乗らなかっ
た。彼女は「そんなことはどうでもいいでしょ!」と言い放ち、刹那に
ただ一つの答えだけを求めている。
 単純に「Yes」か「No」かを。刹那は頭をかく振りをして通信機
の電源を入れた。これで、茉莉でも狗狼でも通信機の前にいればアドバ
イスくらいならもえらえるだろう。
『ちょっと・・・これは何よ刹那』
案の定すぐに茉莉の声が聞こえた。ただ、周りが騒がしいところから、
店の中で刹那と同じ型の通信機を持っているのだろう。時間帯からいっ
て、きっと店ではランチタイムという名の修羅場であろう。
 刹那は答えられない。美姫の怒声を伝え、状況を把握してもらう他に
手段はない。茉莉が黙り込む。どうやら意図が通じたようだ。
「先生!答えてください」
 やがて、刹那は答えた。茉莉のアドバイスも待たずに。
「・・・いたよ」
「先生!って・・・え?」
「いましたよ。深夜の新宿に」
『ちょ!?刹那!?』
茉莉の狼狽した声も聞こえてくるが、刹那は構わずに続けた。
「私は確かに深夜。おそらく終電が出てしまうだろうその時間に、確か
 に新宿にいましたよ」
「・・・じゃ、じゃあ」
美姫の声が震える。それは何にたいしてなのかはわからない。
 刹那は耳元で聞こえてくる茉莉の声を無視して続けた。
「まあ〜私の家というか、居候先がその近くなんですよ。だから、いや
 でも新宿にはいるわけなんです」
「え?」
美姫が口をぽかんとあけている。刹那は微笑んで、
「天都さん。口が開きっぱなしですよ」
と教える。美姫は真っ赤になり、慌てて両手で「ぺちっ」と口を押さえ
込んだ。刹那はゆっくりと言葉を続ける。
「私は新宿のとある場所に居候しているんですよ。だから、新宿に行か
 ないと家に帰れないんですよ」
通信機の向こうで、茉莉が安堵のため息をつくのがわかる。
「じゃ、じゃあ外にいませんでしたか?」
「その時間にですか?いませんよ。その時間は家で大騒ぎしてましたか
 ら。いや〜あれは大変だった」
のらりくらりと刹那は有りもしないことを話し始めた。少し遠い目をし
てみせる。
「天都さんも今朝、私の姉に会ったでしょ?ああ見えてもね、姉は大変
 なんですよ。昨日も酔っぱらって家の中で服をいきなり脱ぎ出すし・・・」
 耳元に鈍い音が聞こえる。刹那には容易に想像できた。茉莉が通信機
を握った音だろう。美姫も再び唖然として聞いている。
「酒癖が悪いったらもう・・・昨日も苦労しましたよ」
やれやれとわざとらしく、それも大げさにため息なぞついてみせる。
『刹那・・・覚えていなさいよ』
通信機の向こうから低く怖い声がし、刹那は冷や汗をかいたが表向きは
いつものようにしている。
 まずは美姫の好奇心から身を隠す方が優先だ。だが、刹那の考えは半
分正確であり、半分は不正確だった。美姫がゆっくりと口を開く。
「先生」
「はい。なんでしょうか?」
「今度・・・ううん。今日の放課後にでも先生の家に行っていいですか?」
事情を知らぬ人が聞けば、何かと誤解されそうな言葉を美姫は口にした。
無論、本心は刹那の家に行き、刹那の正体を確かめることにある。刹那
にもそれは読めた。
 Purururu・・・・
突然電話が鳴った。刹那が美姫に「ちょっと待って」と手で合図をして、
受話器をとる。
「あ、暮内先生ですか?お姉さんと名乗る方からお電話です。そのまま
 おつなぎしますね」
と職員室にいる事務の女性の声だった。そして、プツンと音が鳴る鳴り、
茉莉の怒声が聞こえた。
「ちょっと!私がなんで酒乱なのよ!!」
「お、落ち着けよ・・・ま、姉さん」
思わず茉莉と名を呼びそうになり、刹那は言い直した。
「それに、何?もう教え子に手を出したの?あの娘がいながらも?」
「ご、誤解だ。それに、俺は許可した覚えが・・・」
「ワシが許可する」
電話はいつの間にか狗狼に代わっていた。刹那が絶句する。
「彼女がこちらの手の中にいれば、何かと仕事がしやすいからな〜」
真面目に答える狗狼の声の裏側に潜むものに、刹那は気づいた。
「もしかして、楽しんでいるのか?」
「おや?ばれたか・・・」
「・・・クソ親父が・・・」
その言葉に美姫が反応した。受話器を刹那の手から奪い取る。
「あ、もしもし。私、暮内先生の教え子で天都美姫と申します。いつも
 先生にはお世話になってます。ちょっと今日の授業で分からないこと
 があったので、勉強を教えていただきたいのですけど・・・・ええ。
 おじゃましてもいいんですか?ありがとうございます。はい。ええ。
 じゃあ、先生にもお伝えしますね」
と美姫は狗狼と話しが終わったのか、受話器を置いてしまった。
「ああ・・・」
『自業自得よ』
通信機から茉莉の声が聞こえた。
「先生。聞いての通りです」
「まだ、私は何も聞いてませんが?」
茉莉は胸を張って─────勝利を勝ち取った笑みで伝えた。
「週末だし、泊まりにおいで。だそうです。お姉さんが特に賛成してく
 ださりました。というわけで、今日の夜に伺いますね」
美姫は言うなり、研究室を出ていった。
「茉莉・・・狗狼・・・覚えていろよな」
通信機に向かい、刹那は暗い声で呟いた。通信機の向こうからの返事は
なかった。当然のように。


〜続く〜


To Be Continued !!

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