コラム!!
今日の話題はにゃにかにゃ〜〜?
2001年 4月21日 クランチ?? ディストーション??
早い話、ギタリストの選ぶ「ひずみ」ってのは好みの範疇だよね。
どこぞの阿呆でもない限りは、「ギターの音ってのはこれが正しい」とは言わないだろう。
で、今回語りたいのは「オーヴァードライヴ」について。
といっても「波紋疾走」とは関係ないので、予めお断りしておきます。
さて、この「オーヴァードライヴ」という音、中途半端で俺は好きじゃない。
重たく、豊かに歪んだ音を身上にする俺は、圧倒的に「歪んでいる」ことに拘りがある。
勿論、状況によってはクリアトーンやクランチ系の軽い歪みも使うけどね。
だが、この「オーヴァードライヴ」はちょっと厄介な相手だ。
使い勝手としては、邦楽のバックなんかで流れてる、案外ハードに聞こえる音なんかがこれに当るだろうかね。
しかしながら、このタイプの音の最大の欠点は、音が拡散して汚く聞こえるのである。
マーティー・フリードマンがかつて「甘くてミルキーな音を目指している」と言ったことがある。
音の聞こえ方は歪みまくっていても、しっかりした音が作れていれば「甘く」聞こえるんだよ、という示唆的表現とも言えよう。
全面的に彼を支持するつもりはないが、ギタリストの目指す所、「音の粒が一つ一つはっきり聴き取れる」というのは理想である筈。
クリアトーンは勿論、クランチやディストーションによる歪みも、この条件に答えてくれる良いエフェクト効果を持っている。
ところが、「オーヴァードライヴ」の音を聞くといつも思うのだが、音が拡散しているように感じられるのだ。
例えば5度コードを弾いた時、塊として聴き取れるほかのエフェクトに比べ、このエフェクトだと音がむやみに拡散しているように聞こえる。
もっとはっきり言うと、汚く聞こえる。
そんな訳で、俺は「オーヴァードライヴ」というエフェクトが嫌いなのであった。
まあ、人が使っているのにはケチをつける気はないが、あれだったらアンプの歪みを利用した音のほうが余程良い音に聞こえるな。
でも、上手くイコライジングしないと今度はスカスカになっちゃうから、手間暇がかかるし。
結論。
そういう音を使った音楽は、俺は嫌いだ。
なるほど、だから俺は邦楽を聴かないんだな。
うん、綺麗に纏まったじゃないか。 ←そうか?
2001年 4月30日 エフェクトとアンプ直結
今回もギターのお話。
要するに、ギタリストが音を弄るのは曲の雰囲気に合った音が欲しいから。
「この音を使うぞ」と言って曲を書く奴はまあいない。
俺でさえやらないんだから、他の奴はもっとやらないだろうな。
で、エフェクトの音作りが楽しいと、ついつい過剰な音を作りすぎて粒が聞こえない、つぶれた音を作ってしまいがち。
特にライブではそうなるよね。
俺が「ライブは苦手」なのは、それが大きい。
ついつい「これも」とか「あれも」とかエフェクトをかけすぎて、弾いていて自分の音が聞こえなくなってしまう。
抜けの悪い音を作る事ほど、ギタリストにとって屈辱的なことは無く、俺はこれで何度も失敗している。
で、ライブが終わったあとに自己嫌悪に陥り、「もう二度とライブなんかやらん!」とか思っちゃうんだよね。
ま、今現在は久し振りにやりたくてたまらんが、ライブ。
考えてみると、結局ギターの音が一番良いのは「アンプ直結」のときなんだよね。
よく「ギタリストはアンプ直結に帰る」と言うんだけど、アレはホントのことだと思う。
クリアトーンのときに軽くエフェクトをかけてやるのはまあ良いとしても、歪んだ音をメインにするギタリストにとっては、結局アンプの音が一番なんだよな。
マーシャルが人気がある理由が分ろうと言うものだね。
今現在、俺は殆どエフェクトを使っていない。
せいぜいが「ノイズリデューサー」と「イコライザー」程度だ。
あとは、状況によって軽くコーラスをかけてやる程度。
殆どプリアンプで歪ませただけの音をメインで使ってる。
俺は10年かかってこの境地にもどって来た。
ギタリストとしてはかなりトロイよな。
ギターやってるみんなは、ちょっと心に留めておくと良いかもよ。
2001年 5月7日 文化と戦争
今回の話題は、ちょっと危ない話題だ。
どう危ないかというと、ちょっと軍国主義なにおいが漂うから。
といっても、俺は軍国主義者ではないので誤解なさらないように。右翼よりではあるけどね。
第二次大戦、というか太平洋戦争では、日本は世界第3位の海軍国だった。
造船技術はかなりのレベルであり、1940年当時では日本よりも優れた船を造れる国はドイツとイギリスくらいのものだった。
このうちドイツは造船技術というか、海軍兵術思想の観点から見て、やはり一回り下の海軍力だったといってもいい。
日本のような優れた空母を造ることもなかったし、イギリスのように優秀な戦艦を造ることもなかった。
確かに「ビスマルク」や「グナイゼナウ」といった戦艦は優秀な船ではあったものの、イギリス戦艦のような余裕を持った堅牢さにはやや及ばなかった。
これは致し方ないことであり、ドイツは基本的に陸軍国家だったこともあって、海軍力の充実はやや立ち遅れたのも頷けるのである。
で、肝心の日本はどうかというと、戦艦は大して見るべきものが無い代わりに空母と巡洋艦が凄かった。
特に開戦当初の空母力は世界一で、「機動部隊」という単語を実戦で実現したのは日本海軍なのである。
航空機の集中運用という画期的な戦術を披露し、基地航空部隊と機動部隊との連携で敵戦力を叩き、然る後に上陸占拠を行うという新しい戦略を見せたのも日本軍だ。
日本は海軍運用の面では極めて優秀だったのである。
しかしながら、誉められることばかりではないのは人の世の常。
日本海軍の最大の欠点は、「防御を犠牲にして攻撃を優先した」という事であった。
つまり、異常なほど優秀さを誇る空母や巡洋艦の性能のうち、ぽっかりと防御の面だけが、まるでクレーターのように落ち込んでいるのだ。
金の無い悲しさ、貧乏国だった日本軍の苦肉の策が見えて、涙ぐましい努力を感じることが出来る。
しかし、これではいつか必ずボロが出るのは当たり前のこと、結果として新しい技術導入と生産力に余裕の無くなった日本は、兵器開発の面でも大きく他に遅れを取ってしまった。
これも全て、経済力に劣る結果だったのである。
思うに、軍備とは政治に支配され、政治は経済に支配される。
経済が悪化しているならば、軍備もまともなものを揃えられる筈が無いのである。
そういう意味では、経済大国は軍事的にも強いってことになるだろうな。
もう一つ、日本が勝てなかった大きな原因がある。
それは西欧諸国との文化レベルの差である。
文化レベルが低いという事は、末端機能を請け負う小部品の性能が悪いという事になる。
パッキン一つ取っても、日本は水漏れを起こしていた(と、うちのじいさんが言っていた)そうだから、結果として戦争に負けたのは仕方がないだろう。
各種技術の集大成が兵器であることを考えると、日本の兵器は日本の文化レベルを遥かに超えていたものの、結局は細部に細かな落とし穴があるままできていたことになる。
これでは、仮に勝てる戦いだったとしても負けるのは道理であった。
要するに、戦場で勝つことが戦争に勝利するという事ではない、ってことだ。
総合的に見て自国の力を計らずに戦争する国は滅びる。
今、自衛隊が必死になって戦力の拡充を図っているらしいと新聞に出ていた。
昔ミッドウェイで沈んだ「飛竜」クラスの航空運用艦を配備したとも聞いた。
まあ独立国家として自前の戦力を持つこと自体が悪いとは俺は思わない。
思わないが、経済力にそぐわない、維持できない戦力だけは持たないようにしてもらいたいもんだ。
日本は今現在不況の真っ只中にいる。
見栄張って戦力増強なんかに血道をあげてる場合じゃないと俺は思うけどね。
2001年 5月15日 邦楽のお話
今日は珍しく邦楽のお話。
それもいつものような悪口じゃないぞ、明日は雪になるな、きっと。
1981〜1989年までの邦楽は実に元気が良かった。
メロディを主軸として、分かりやすい良質な曲が沢山揃っていた。
その中でも、特に「カッコイイ」と思ったバンドが二つある。
一つは「BOOWY」。
本とは2つ目のOには斜めの線が入るんだけど、このマシンじゃ出ないので我慢。
このバンド、問答無用のカッコ良さだった。
基本的には英国的なテイストをベースにして、そこにポップなメロディを乗せる。
このアレンジが実に高度で、衝撃的だった。
メタルキチガイと化した今でも、俺はこのバンドは良く聞いている。
そして、今聞いてもカッコイイのだ、このバンドは。
もう一つは「NOBODY」というバンド。
こちらは、恐らく誰も知らないだろう。
ただし、その曲は80年代に邦楽を聞いた人なら知ってる曲だらけ。
吉川浩司とかアン・ルイスとか、そのへんの人達に曲を提供したのがこのバンド。
「モニカ」とか「六本木心中」とか、名前だけなら聞いた事あるでしょ。
このバンドは、基本的な部分はローリングストーンズとかビートルズ。
ロックのテイストにブルース的要素を取り入れ、日本離れした楽曲を作る。
もしも歌詞が日本語じゃなければ、そこらへんの洋楽バンド並の楽曲は軽く作れるとてつもない実力を持っている。
「BOOWY」は解散してしまい、そのメンバーのそれぞれはいかにも邦楽的な方向を向いてしまった為、少しばかりがっかりしてしまったが、「NOBODY」はいまだに現役。
相変わらずイキのいい、カッコイイロックをやっている。
このバンドの曲では、「TRAX」というアルバムの最後の曲「MOVING
UP」の激烈なカッコ良さが気に入っている。
歪んだギター、激しいドラム、メロディ主体のアレンジ、まさに正真正銘の「ハードロック」である。
下手をすると、そこらへんの洋楽ハードロックバンドでも太刀打ちできないほどにカッコイイ。
この曲が存在するだけでも、日本では最高のバンドだと俺は思っている。
こういうバンドが頑張ってるうちは、ひょっとすると邦楽も捨てたものじゃないかもしれない。
そういう訳で、近いうちにこの二つのバンドは特集として取り上げる。
サザン、YAZAWA、渡辺美里、そういう人達が頑張っていた頃の邦楽なら、俺は取り上げる事が出来ると思うからな。
2001年 6月 14日 温故知新?
先日、床屋で髪を切った。
で、椅子に座ってうとうとしながら髪を切られていた時、懐かしい曲がテレビのCMで流れていた。
’94だったか’95あたりに大ヒットした、スピッツというバンドの「ロビンソン」という曲である。
という訳で、前回に続いて邦楽のお話。
この曲、発表当時は俺はあまり気に入らなかった。
彼らのようなタイプの軽いギターの音が嫌いだったこともあって、基本的に受け付けなかったのだ。
当時、邦楽はプロデューサー主導主義に入ったばかりで、小室氏と小林氏がその巨頭であった。
スピッツというバンドは、俺の記憶が定かなら後者の系列に入るバンドだった筈である。
今でもそうだが、俺はこのプロデューサー主導主義の音楽は大嫌いだ。
ミュージシャンとしての矜持が無いのと同じだ。
まあ商才はあるだろうし、それは否定すべきことではないが、音楽を虚仮にするような素人集団を餌にし始める奴らは基本的に敵だと思っている。
音楽の道ってのは修羅の道だ。
精神に虫歯を作ってるような甘いドシロートが首突っ込んで良い世界じゃねーんだよ、と俺は主張したいが、反対の意見を完全否定するほど心が狭いつもりは無いので、「彼らは嫌いだ」という形で括ってるんだけどね。
話が反れた。
で、当時嫌いだったこのスピッツというバンド、今はどうかというと、実は結構気に入っているんですよ。
ただし、彼らの音楽が好きになった訳じゃなく、周りの音楽をより嫌いになったから、というのが正しい。
彼らを「おお、案外良いじゃん」と思うようになった切っ掛けは、昨年くらいに発表された「ほたる」という曲。
ラジオで聞いてただけだからどう表記するのが正しいのかは分からないが、この曲は結構気に入っていた。
音といい、演奏の仕方といい、基本的なものは昔の彼らと変わっていない。
だが、ヒットチャートに入っている曲と比べた時、その存在感が凄くあった。
メロディが非常に叙情的であのヴォーカルの歌い方にぴったりだったし、歌詞も曲のイメージによく合っていて、聴いていて好感が持てる曲だった。
最近の邦楽としては滅多に無いストレートな創りも良かったし、何より16ビートに見向きもしない態度は賞賛に値する。
「俺たちは俺たちのスタイルで行くぞ」という無言の主張を感じて、俺は彼らに好感を持った訳だ。
で、暫くのちに「ロビンソン」をゆっくりと聴く機会があったのだが、改めて聴いてみると、日本的なセンス溢れる良い曲じゃないか、と思った。
こうも気に入らない音楽ばかり聴いて(聴かされて)いると、やっぱりこういうストレートな曲は良いものだと思う。
ある知人は「落ち目ですよ、こいつら。全然売れてませんし」とか言ってたが、そんなことカンケーねーよ。
売れてるから良い曲なんじゃねーよ。
如何に聴きたいと思う感性にフィットするか、それだけだ、良い曲かどうかの基準なんて。
100人いたら100通りの基準があるんだ馬鹿タレが。
おっと、つい熱くなってしまったが、要するに散々汚染されてきた(大袈裟でなくそう思っている)俺の耳には、非常に心地よく響くのだ、彼らの曲は。
そろそろベテランの域に入りつつある彼らではあるが、頑張って欲しいものだ。
とは言っても、まあ彼らのアルバムを買うなんて事は無いんだろうけどな(苦笑)。
2001年 6月 25日 比較対象
久しぶり、実に一年くらいぶりにメタル系CDを買った。
と言うか、ここ1年間で買ったCD自体がせいぜい3枚程度だったから、CDを買ったこと自体が激烈に久しぶりだったとも言えようか。
で、何を買ったのかと言うと。
RIOT/The Brethren Of The Long House
このライオットというバンド、かなりの俺のお気に入りバンドである。
流石にMANOWAR程ではないにせよ、非常に誇り高い信念を持った孤高のメタリストたちの集団なのだ。
中々本国アメリカでは認められず、所謂ビッグ・イン・ジャパンな所が、逆に俺としては応援したくなる。
演奏や曲も相当なもので、正統派のメタルを聴かせてくれる。
さて、このアルバムではコンセプト的な要素の基いた構成になっている。
所謂ネイティブアメリカン=アメリカインディアンの話を軸にした楽曲群がずらりと並ぶ。
「ラスト・オブ・モヒカン」という映画からヒントを得て作られたアルバムだということだが、映画のメインテーマを重厚にアレンジしたものまで入っており、聴き応えは十分である。
ところが。
このアルバムのテーマにそぐわない曲が一曲だけ入っている。
広い意味ではテーマは同一ではあるが、このアルバムのほかの楽曲が引き締まったテーマの中に納まっているため、ますます「?」と思うのだ。
それがカバー曲なのであるが、俺が良く知っている曲でもあるので余計に心中は複雑だ。
誰の曲かというと。
GARY MOORE/Out In The Fields
1985年、故フィル・ライノットとの競演で注目を集めた、全英4位まで大ヒットしたナンバーである。
個人的に言って、ゲイリーの曲の中ではそれほど良い曲とは言えないのだが、それでも重要な意味を持つナンバーであることは確かだ。
主題はアイルランドに今も続く緊張状態についてであり、政治的な匂いが強い。
アイルランド出身であるゲイリーとフィルによるものだけあって、極めて深刻な内容を持つ曲だと言えよう。
で、何故かこれが「アメリカインディアン」の話に出てくるのである。
「理不尽な迫害を受け、争いの中に命を失っていく者達」というテーマを尊重した結果らしいが、余り説得力を持たないのは、元が有名過ぎるからかもしれない。
全体的な曲の流れにはハマっているので浮いた感覚は受けないものの、ここはオリジナルで通すべきのような気もする。
で、実際に聴いてみて思った感想は。
「う〜む、やっぱりゲイリーは上手いなあ」(爆)
いや、確かにこのライオットというバンドは皆上手い。
ヴォーカルのマイク・ディメオは透明感のある声を堪能させてくれるし、ギターの二人も相当な腕前。
バンマスであるマーク・リアリの力量は特に素晴らしく、ギタリストとしてはかなり上位にランクできる筈である。
で・も。
やっぱり比較してみれば、ゲイリーの化け物的な力量が分かってしまうのだ。
普通だったら、こういうカバー曲の場合は一つのハイライトになる筈なのだが、このアルバムではどうやら相手が悪かったようである。
そんな訳で、このアルバムから得られた教訓。
カバー曲は良く考えてから収録しましょう。
追記:彼らの名誉のために言っておくが、このアルバム自体の出来はかなり良い。
という訳で、今月の「お勧めの音楽どもだッ!!」に入れておく。
2001年 6月 27日 信念と美学
世に自らを「漢(おとこ)」と名乗る者は多い。
また、己を「侍」と定義する者達も数多くいる。
立派なことだと思うし、そう定めたからにはその名に恥じぬ生き方をしているのだろうと思う。
尊敬すべき人物達だといって良いであろう。
では、かく言う俺はどうであろうか。
俺は予め宣言するが、「漢」でも「侍」でもない。
「漢」「侍」に共通するものは何であろうか。
それは「押忍の心」であるといって良いだろうと思う。
心では相手を押しつつも、態度では耐え忍ぶことだ。
つまり、決して攻撃的ではなく、自らの心に自信を持って耐え忍びつつも堂々と胸を張って生きることといって良い。
これはこれで立派な生き様だ。
尊敬に値する。
だが、俺はそうではない。
繰り返すが、俺は「漢」でも「侍」でもない。
俺は「戦士」である。
「戦士」の生き様とは何であろうか。
それは「誇りと信念、そして美学」である。
「漢」であること、「侍」であることに必要なものが「自信」であるとしたら、「戦士」にとって必要なものは「誇り」なのである。
笑いたければ笑えば良いが、俺は音楽、それもへヴィメタルに全てを捧げ、神聖なる血の契約を交わした戦士である。
メタリストであることに最大限の誇りを持っている。
盾や斧の代わりにギターを持ち、メタルのために戦い抜く戦士であることが俺の信念なのだ。
そして、「戦士」には不屈の闘志がある。
立ち塞がるものが居るならば、粉砕して勝利を掴み、前進するだけである。
よって、俺には「押忍の心」は存在しない。
メタルの敵は俺の敵。
迷わず攻撃して粉砕するまでである。
誇り高きメタルの魂を汚すものは、俺は決して許さない。
「戦士」には「休息」はあっても「甘え」はない。
また、「敗北」はあっても「挫折」はない。
「戦士」の心は絶対に折れないのだ。
だから俺の心は絶対に傷付かない。
肉体が傷付き血が流れたとしても、俺の鋼鉄の魂には掠り傷一つつけることは出来ないのだ。
俺の魂に「美学」と「信念」がある限り、俺はいつまでも雄々しく立ち続けることが出来る。
ほかの事などどうでも良いが、俺はメタル戦士である「誇り」だけは絶対に捨てない。
どんなものであれ、俺を挫折させようとするものがあるのならば力尽くで粉砕するだけのことである。
「戦士」の言葉は誓いの言葉でもある。
他の事ならともかく、へヴィメタルについて語る俺の言葉は「戦士」としての言葉、誓いの言葉だ。
だから、今ここで語っている言葉は真実の言葉なのだ。
決してウケを取ろうとか笑わせようとか、そんな目的はない。
俺は孤高のメタル戦士である。
「誇り」と「美学」と「信念」に生きることを誓ったのだ。
この生き様は、例え天地がひっくり返ったとしても決して捨てる事はない。
「メタルブラザー」である事を認められた者としてどこかで表明すべきだと思ったので、ここで宣言しておく次第だ。
2001年 7月 12日 民族性?
某HPにて、こんな表現を見かけた。
「日本人はオリジナリティに溢れている」
勿論、これは大意であって正確にこう書いてあった訳ではない。
ただ要約して表現するならこうなるだろう、という事である。
さてこの意見、果たして正鵠を射ているだろうか?
俺は断じてNOだと思う。
日本人の能力で特筆すべきは、その高いアレンジ能力だと俺は思う。
勿論個人差はあるのは前提ではあるが、集団として見た時の日本人の能力は、何と言ってもここにあるだろう。
仏教の導入からこっち、日本人は海外からの影響を大きく受けて文化を発達させてきた歴史がある。
その度に、日本人は元々の本質を巧妙に変化させ、自分達に馴染みやすい形にアレンジする事に成功してきているのだ。
有名なところではテンプラなんかがそうだろう。
これは元々海外の料理であったが、巧みに日本人がアレンジを加えた結果、世界が認知する日本料理の代表となった。
日本人の能力で真に評価すべきは、アレンジを加えたものが元のものより優れているものになる確率が高いというところではないだろうか。
また戦時中の話になって申し訳ないが、日本が世界中を震撼させた高性能戦闘機「零戦」なんかも、細部にわたってみると、結構日本独特のアレンジを施した海外品が多かったのだ。
このあたりの、自分達にフィットするものにアレンジしていく力というのは、あまり他の民族では見かけないものがある。
それでもインディアンなんかがこれに近い能力を持っていて、何度か白人を破った戦いなどはこの能力の賜物といっても良いのではないだろうか。
また、アイヌ民族も和人(シャモと読む:本州人のこと)から輸入したものをアレンジして、自分達流のものを作り上げていた形跡があって、興味深いものがある。
こうしてみると、結構原住民系の人々はその能力が高いような気がする。
これはあくまで俺の推論であるが、以下にその理由をちょっと書いてみたい。
つまり、日本人を含めた原住民系の民族というのは、自分達の文化レベルに対してかなり保守的なのではないだろうか。
だから、元のものをストレートに受け止めるような事をせず、一旦自分達に受け付けやすい形に咀嚼する必要があった。
その結果、高度なアレンジを施す事が出来たのは、日本の持っていた潜在的な文化レベルが非常に高かったからではないだろうか。
インディアンにしろアイヌにしろ、結局は文化的な水準は高いとは言えなかった。
無論、彼ら独自の文化には敬意を払っているし、素晴らしいものがあるのも勿論だ。
ただ、文化というのは「他の相手との接触」があったときにどう対応できるかでその高さが決まると思う。
そう考えると、彼らの文化レベルは残念ながら集団としての文化レベルであって、社会としての文化レベルではなかったと思うわけである。
そこへ持ってくると、日本の潜在的な文化レベルは「社会的な纏り」を求めていたといえようか。
この「一致団結」という姿勢が結局は日本の分化水準を高めていたのかもしれない。
つまり、「俺達の分化は俺達で守る、他のものはいらない」という排他的な感覚があるからこそ、返って全体的な水準を高レベルに維持しようという考え方になったのだろう。
そのために必要とあらば、今の自分達に足りないものを積極的に導入していく事も厭わない、という事になる。
これが根本にあるからこそ、輸入品をアレンジして自分達に合わせていく能力が成長したのではないだろうか。
なんだか纏りなく書いてしまったが、早い話この独自能力は誇りにしても良いと思うってことだ。
更に言えば、「日本人はオリジナリティで優れてる」から他の国のものを馬鹿にしていいって理屈にはならんだろーよ、という事である。
ま、以前日記に書いた事の蒸し返しだけど、要するに思い上がりで他の国や人のものを笑い者にするのはどうかと思うぞ、ってハナシだったのでした。
とてもそうは見えないけどね(汗)。
で?
何処のHPをネタにしてるのかって?
そりゃアンタ、「首」ですよ、「首」。