コラム!!
何について語るかは気分次第。さて、今日のお題目は?


2001年  7月 21日   漫画と実生活

論旨に入る前に少しだけ前回のお詫びと反省と訂正。
前回「首」サイトをちょこッと批判した俺ではあるが、これはあくまで「首」のゲームが真面目に作られているという狭い前提においての事だった。
それで、ある方から指摘を受けたのだが、「首」ゲーが向こう流のギャグである可能性を完全に失念していた。
この場合、前回の批判は全く成り立つ余地がなくなる。
よって、ここで一方的な批判であった事をお詫びしておく事にする。

皆さんも、読んで「こう思うぞ」というのがあったら、メールなり掲示板なりでガンガンご意見下さい。
そういうリアクションがあったほうがオイラとしては嬉しくて良いです。
必ず返事しますので、どちら様もご遠慮一切無用で。

さて、今回の本題、漫画と実生活の話。
まあ大体の人が一度は「〜ごっこ」というのをやったことがあるだろうと思う。
これをオトナになってからやると、非常にガキっぽく評価されてしまうのがオイラは気に入らない。
何故なら、オイラは未だに(30一つ手前になっても)「〜ごっこ」を良くやっているからである。
それを恥ずかしいとは思わないし、第一楽しいからやっていることなので何故皆やらなくなるのか、非常に不思議である。

以前こんな事があった。
山手線に乗り、「ジョジョの奇妙な冒険」が好きな友達と「ジョジョしりとり」をやっていた時の事だ。
「シアー・ハート・アタック」
「クリーム」
「無駄無駄ァッ!!」
「アリアリアリアリアリーヴェデルチ!!」(決して「だ」ではないところがポイント)
そこで、俺は傍と詰まってしまった。
今から思えばいくらでもあるのだが、その瞬間だけは度忘れ状態になってしまったのだ。
いくら頭をひねっても出てこないので、「これは負けだな」と密かに覚悟した時だった。
俺の後ろからボソリと「チープ・トリック」という声がした。
大きくも高くもない声だったが、俺も友達もはっきり聞き取った。
驚いて振り返ると、そこにはスーツを着た30台なかばとおぼしきサラリーマンがこちらに背中を向けて立っていた。
そのサラリーマンはホンのちょっとこちらを振り返ると、ニヤリ、と笑ったのだ。

あまりのカッコ良さに俺はそのサラリーマンを「男の中の男」と崇め奉り、髪形を真似することにした…なんてことはなかったが、そのサラリーマンの背中が誰よりも輝いて見えた事は事実である。

こういう遊び心を忘れないというのは、凄く大切な事だと俺は思う。
社会人になったとき、人間は何故か凄く世間からの評価を気にするようになる。
だからかもしれないが、世間で「ガキの遊び」と思われているこういう「〜ごっこ」みたいなものは敬遠されてしまう。
それは処世術としての所謂「大人の知恵」ってヤツかもしれないが、考えてもみて欲しい、自分がやりたい事を我慢してまで世間の評価を得るのは大切な事だろうか?
そんなものより、自分らしくあろうとするほうが何倍も大切ではないだろうか。
無論、自分がやりたいからって他人に迷惑をかけるのは論外だが。

漫画というのはあくまでエンターテイメント、娯楽だ。
だから在りそうもない話が書かれるし、それに熱中するのは「そうなれたら良いなあ」というしがない現実からの一瞬の逃避といっても良いだろうと思う。
それがオトナになるにつれ、だんだんと許されなくなってくる。
それが現実だと言って割り切るような物分りの良い頭なんか俺は持ってはいないから、俺は声を大にして主張させてもらう。

大人よ、もっと夢を見ろ!!

良いじゃないか、現実から逃げたって。
かつて子供の頃、漫画から何かを得た経験が誰にでもあったはずだ。
それが今はもう無いとどうして言えようか?
そうやって逃げた先から何かを得て帰ってきたほうが、よっぽどカッコイイと思うぞ。
ただ現実的な思考ルーチンを繰り返しているなんて、寂しすぎやしないか?
夢を見て、それを現実に生かすのは悪い事じゃないだろう。
オトナである事の体面なんかより、自分である事に拘ろうぜ。
そっちのほうが遥かにカッコイイってことを信じてる奴は、多分沢山いるはずだからな。

そんな訳で、俺は当分漫画を読むのも「〜ごっこ」もやめるつもりは無い。
そっちのほうが俺らしいことを俺は知ってるからな。


2001年  7月 23日   JOJO私的考察1・スピードワゴン・ザ・ナイスガイ

俺はJOJOが好きだ。
滅茶苦茶に好きだ。
日常生活をしていく上で、JOJOを抜きに生活を成り立たせるのは不可能と言っても良い。
JOJO、北斗、バキ。
この三つは男子たるもの日常で使いこなせねばならぬネタだと固く信じていたりする。

で、今回はJOJOの話。
と言っても、別に難しい話をするつもりは全然無い。
はっきり言えば読書感想文みたいなものと思ってくだされば結構。
でも、ついて来れない方もいるんですよね…(汗)。

ま、今回は勘弁して下さい。

JOJOは現在タイトルを変えて連載中の「ストーンオーシャン」まで含め、6部構成で成り立っている。
それぞれの部にはそれぞれの魅力的な主人公がいて、また魅力的な敵がいる。

第1部の主人公は、英国紳士ことジョナサン・ジョースター。
第2部はアメリカかぶれのナイスガイ、ジョセフ・ジョースター。
第3部は日本が舞台、不良の空条承太郎。
第4部はこれも日本、心優しきツッパリ東方丈助。
第5部はイタリアに舞台を移して、ジョルノ・ジョバァーナ。
そして第6部は始めての女性主人公、空条徐倫。

皆ジョースター家の一族である。

この中で、特に人気が高いのは第3部、空条承太郎の部である。
承太郎のクールでパワフルなキャラクターと「スタンド」という設定が非常な人気を呼び、JOJOは通好みの漫画から一気に国民的漫画へと飛躍したのだ。

じゃあ、俺はどうか。
全部好き、というのは基本的な前提だが、俺が敢えて挙げるとすれば、最高なのは第1部である。

理由は、主人公ジョナサンの魅力的すぎるキャラクターと、漫画史上最高の敵、ラオウと並んで少年達の人生に絶大な影響を与えた最大の敵役、ディオの存在があるから。
それだけではない。
ジョナサンは、漫画史上最もカッコイイ「解説役」を引き連れているのだ!
その名もスピードワゴン。

良くある少年漫画のパターンだと、解説役は解説役から飛び出し、自分でピンチの種をまくことが往々にしてある。
それを主人公が助け、カッコイイ場面として演出されるわけだ。
つまり、解説役は己の役割を飛び出してしまう事があるのである。
これを身の程知らずといい、読者には不愉快に映るときがあるわけだ。

スピードワゴンは、己の役割をきっちりと知っている。
自分に出来ない事があればそれは敢えてしない、そんなことをすればジョナサンの足手纏いになることが判明しているからだ。
その代わり、出来る範囲内の事は全力でこなし、ジョナサンをバックアップしていく。
つまり、スピードワゴンは「自分が弱い」という事を熟知しているのだ!!

何てカッコイイのだろうか。
まさに「漢」だと言って良い。

スピードワゴンは第1部終了後も生き延び、第2部にも重要な役割を担って登場する。
いや、第2部だけではない。
JOJOにはずっと「スピードワゴン財団」という形で、その本人の死後も影響を与え続けるのだ。

素晴らしく魅力的なキャラである。
出来ない事と出来る事を熟知し、その中で全力を尽くして主人公たちをバックアップしていく。
まさに「理想的解説役」と言えるだろう。
この魅力に取りつかれた俺が、第1部からすっかりJOJOにハマってしまったのは自然の成り行きというものだ。

JOJOに於ける最高のキャラ、それがスピードワゴン。
だから、俺は第1部をこよなく愛しているのである。

←TO BE CONTINUED !!


2001年  7月 24日   JOJO私的考察2・ザ・ベストバウト・オブ・JOJO

今回はJOJOに於ける最高のバトルを書いてみたい。
JOJOの戦いで特に人気が高いのはジョナサン×ディオ、承太郎×DIO、イギー&ポルナレフ×ヴァニラ・アイスといったところである。
このほか、通好みな所ではジョセフ&シュトロハイム×サンタナ、岸辺露伴×大柳 賢(ジャンケン小僧)なども取り沙汰される。

では、俺はどうか。
俺が挙げたいベストバウトは、次の二本である。

1:ジョセフ×ワムウ

2:広瀬康一&空条承太郎×吉良吉影

1については、今更多く語る事も無い、まさに最高レベルの戦いだった。
盟友・シーザーを失ったジョセフと、戦いに全てを燃やす戦士・ワムウの戦車戦である。
この戦いでは、ワムウの誇り高さ、ジョセフの抜け目なさ、そしてパワーの戦いから知的駆け引きまでが存分に描かれており、その密度の高さはJOJO史上屈指のものである。
また、戦いに敗れたワムウと勝者であるジョセフとの間に生まれる、つかの間の、だが確かなる奇妙な友情も感動を呼ぶ。
この戦いによってワムウはJOJO史上でも1、2を争う人気キャラとなり、ジョセフもまたその魅力を改めて確かなものにした。
のみならず、既にこの世にいなくなってしまったシーザーでさえもが、改めてその生き様を読者に思いださせ、涙を誘うのだ。
この戦いのラストを飾る回のタイトル「風にかえる戦士」も、JOJO史上屈指の名タイトルであった。

2は、ちょっとマイナーともいえるシーンだ。
第4部の主役は前回書いた通り東方丈助であるが、ここでの広瀬康一というキャラクターは、非常に重要な役割を担っている。
つまり、丈助が完成されたスタンドを始めから持っているのに対し、康一は「成長する人間性」というテーマを明確にもったキャラクターなのだ。
この戦いの時、康一は既にスタンド使いとして頂点にいる承太郎に身体を張って助けられ、孤独な戦闘を繰り広げる事になる。
承太郎は重体で意識不明。
目の前には、圧倒的な戦力を持った殺人鬼・吉良吉影がいる。
戦いに敗れ瀕死の重傷を負う康一、止めを刺そうとする吉良。
その時、ボロボロに傷付いたままで承太郎が目覚める。

ここからのカタルシスと言ったら、まさに失禁モノのカッコ良さである。

「いい時計だな。だがもう時間が見れないようにたたっこわしてやるぜ…きさまの顔面の方をな………」

ここからの承太郎のカッコよさはまさに空前絶後、第3部でもカッコ良かった承太郎だが、このシーンに勝るカッコ良さは無い、と断言する。
俺はこのシーンを見て、始めて承太郎の真のカッコ良さに気が付いたくらいである。

無論、承太郎だけではない。
このシーンにおいては康一の精神的成長もしっかりと描かれており、第4部の一つの山場として、非常に完成されたシーンだと言えよう。

この2本の戦いこそ、JOJOに於けるベストバウトだと俺は思う。
無論、ジョセフ&シュトロハイム×カーズのような別の意味でのカタルシスを呼ぶバトルも多い。
しかしながら、要素として「成長」「誇り」「友情」といったものをバトルの中に散りばめ切ったこの二つの戦いは、やっぱり特別なものだと思うわけだ。

←TO BE CONTINUED !!


2001年  7月 25日   JOJO私的考察3・邪悪と魅力の化身

さて、JOJOネタ3連発ですが、これが最後。

JOJOマニアなら必ず一度は言った事があるであろうセリフといえば…。

「WRREEEYYYYYYYY!! 無駄無駄ァッ!! 貧弱! 貧弱ゥ!」

全部とは言わないまでも、このコンボを使用しないJOJOファンは地球上には存在しない筈である。
別に勝手な理屈を並べているわけではなく、それがJOJOキチガイにとっては「当たり前」の事なのだ。

ディオ・ブランドー。
第3部からはDIOと呼ばれ、邪悪の化身として圧倒的な力を見せ付ける。
漫画史上屈指の名悪役にして、カリスマ溢れる「悪の華」である。
この魅力があってこその第1部、第3部、第5部、そして第6部への出演といえるだろう。
まあ、正確に言えば第5部と第6部は間接的な出演なのだが。
DIOとジョースター家は非常に因縁があり、DIO無くしてジョースター家は成り立たず、ジョースター家無くしてDIOは成り立たない。
所謂、宿敵とも言える間柄なのだ。

DIOの魅力は、なんと言ってもそのナルシストぶり溢れる帝王ぶりである。
その存在感が非常に嫌味でないのは少年からの彼の成長がしっかりと描かれているからであり、その「過程」を知っている読者から見ると、DIOという男は実に好感が持てる悪役なのだ。
自らを帝王と位置付け、そのための精神的成長を己に課す姿など、主人公であるジョナサンよりよほどしっかりとした目的意識を持っているといっても良いだろう。

DIOのセリフもまた極めて印象的なものが多く、これも彼の魅力の一つである。
勿論、一方でその非道ぶりも実にエレガントに描かれており、悪のカリスマとしての貫禄は充分である。
因みに、第5部の主人公ジョルノはジョースター家の一員でもあり、このDIOの息子でもある。

これほど魅力的な敵を持てた事は、ジョナサンにとっても承太郎にとっても、非常な幸運といえる。
バトル系漫画の面白さは「最後の敵」で決まるといってもいい。
そういう意味では、JOJOは屈指の名作といえるであろう。

さて、JOJOネタを語る上で絶対に外せない、JOJO史上最高の名セリフを吐いた男に最後に言及しよう。
どんなにJOJOに無知であっても、このセリフくらいは聞いた事がある筈である。
言わば、「お前はすでに死んでいる」と同じレベルで語るべきセリフ。

「ナチスの科学力は世界一ィィィィ!!」

そう、シュトロハイムである。

セリフから分かる通り、シュトロハイムはナチスドイツの軍人である。
だが、様々な紆余曲折を経てイギリス人のジョセフと協力し、目覚めた「柱の男」たちに立ち向かう、頼もしい味方として描かれている。

無論、単純な友情だとか信頼だとかを描かないあたりが荒木節。
シュトロハイムはあくまでナチス軍人、高慢で自信過剰な人物という側面ももっているのだ。
だが、一方では誇り高き魂の持ち主でもあり、表面上の態度はどうあれ、心の中では絆で結ばれている、というテーマを好む荒木漫画の真骨頂ともいえるキャラなのだ。

また、第2部では年老いて戦う力を失ったスピードワゴンに替わって解説役をこなすなど、中々味な役回りも締めている。
初登場時は一見「腰抜け」にも近い描写をされていながらも、実は土壇場で底力を発揮する男として一気にファンのハートを鷲掴みにしたところなど、まさに神業である。

シュトロハイムがそのスゴ味を見せ付けたのが、対カーズ戦の飛行機バトルであろう。
己の不死身ともいえる肉体を最大限に利用してジョセフを救うシーンは、間違いなく名シーンである。
第2部終了後も登場し渋い脇役として活躍したジョセフだが、その命は3度に渡ってシュトロハイムに救われているのだ。

もしも第1部でスピードワゴンがいなかったら、俺の最高のお気に入りキャラは間違いなく彼になっただろう。
単純ではない結びつきでジョースター家と絡んだ名脇役・シュトロハイム。
その名を称え、歴史に刻み込む義務をJOJOファンは背負っている事を改めて確認する次第である。

さて、JOJOの話の連発もこれでおしまい。
分からない人も、分かった人も、お疲れ様でございました。


2001年  7月 26日   リーフのゲームよ何処へ行く?

今更正直に告白するまでも無く、俺はエロゲーが好きだ。
殆どその趣向は無制限に近く、節操無しの代名詞といっても良いだろうと自分でも思う。
その中でも特に思い入れが深いのが、「リーフ」のゲームである。

「リーフ」といえばビジュアルノベル…とか言ってる時点で既に時代遅れなのは重々承知ではあるが、やはり始めて「痕(きずあと)」をやったときの感動は忘れられるものではない。
以来、リーフのゲームは18禁ゲーの中の特別な存在として俺は捉えてきた。

ついこの間の話である。
満を持して発表された「誰彼(たそがれ)」をプレイした。
このゲーム、非常に斬新な新システムを導入したことが話題を呼び、大手メーカーの作品という事もあって発表前の盛り上がりは相当なものだった。
無論、俺も大いに期待した。
というか、過去形で書いてるだけに何を言いたいのかすぐにバレちゃいそうだけどね(苦笑)。

迂遠な言い回しはこの際なしだ。
つまらないとは言わない、だが、面白いとは絶対に言えなかった。

新システムの導入は、俺は高く評価している。
今回はその一作目という事もあるので、このシステム面での不満や不都合が出るのは致し方ない事だろう。
どちらかと言えば実験的な意味合いがある作品とも取れる訳だし、むしろ斬新さに挑んだ姿勢は高い評価の対称といっていい。
ストーリは、残念ながら平凡以下と言える。
最初はかなり面白いと思っていたのだが、全てのストーリーが判明してしまうとやはり物足りなさすぎるのである。
これはかなりの減点であった。

それにも増して減点の対象となったものがある。
それがキャラクター、とりわけ主人公の蝉丸である。

悪いキャラだとは思わないが、どうも目的意識が散漫すぎて馴染めない。
嫌いなタイプではなく、どちらかと言えば主人公としては好きなタイプに入るだけに、キャラクター性の薄さがどうしても気になってしまうのだ。
その分だけ、ストーリーとシステムで引き締めるような演出がなされていたものの、やはり「俺は今ゲームをこなしているな」という冷めた感覚は最後まで拭えなかった。

俺の持論であるが、物語はキャラが作る。
物語がキャラを動かすのではない。
まずはキャラありき、その上で物語が動くのが自然だと思っている。
何故なら、キャラクターの感情の動きや行動原理、信念などがあって始めてそのキャラクターが取る行動が決まるからだ。
ストーリーが先に決まってキャラが生まれる訳は無いのだ。

その根本である筈の主人公が弱い、致命的である。

長瀬祐介、柏木耕一、藤田浩之。
みな実にハッキリとしたキャラクター性を持っていた。
ノベルとして描かれただけに余計そう感じるところもあるのだろうが、明確な性格と行動原理があった。
これが「ホワイトアルバム」の頃から少しずつ薄れてきたように感じるのである。

それでも「こみっくパーティー」くらいまでは、ヒロインの魅力が良く強調されていたこともあって面白く感じることが出来た。
「まじかる☆アンティーク」ではそれもやや薄れがちになったものの、俺自身がシュミレーション好きなこともあってシステム的なものに支えられた面白さを感じていた。
しかし、この時点で既に18禁としてのレゾンデートルは殆ど無くなっていたといってもいい。

そして今回の「誰彼」。
あまり言いたくはないが、次もこの調子では困る。
俺はどっかの移り気なファンたちとは違うから、ほいほい宗旨変えするような人間ではない。
いまでも俺の中では「リーフ」は特別なのだ。
今回の新システム導入は方向性としては間違っていないと思うので、次回はもっと完成度の高いものを作り上げて欲しいと切に願う。

どんなにシステムが斬新であっても、動いているキャラクターに魅力がなければゲームとしての存在意義が薄れてしまう。
新システムへの挑戦はいい。
同時に、根本を成り立たせるものへの配慮も忘れないで欲しい。

なんだかんだ言って、俺はリーフを応援している。
頑張れ、リーフ!!


2001年  7月 29日   限界点

最近、ギターを弾きまくる度に思うことがある。

「嗚呼、ギターって難しい」

俺はこれでも10年近いキャリアを持ってるギタリストだけど、楽器ってのはホントに難しい、まさに修羅の道と言うに相応しいと最近ますます思うようになった。
つまり、自分のレベルが上昇すればするほど奥の深さが見えてくるという類のものなのである。
スタートしたばかりの頃は闇雲にやっていたものだが、今はそうもいかなくなっている。
つまり、一定レベルに到達するまでは万人に有効な修練の方法が存在するが、ある一定レベルに到達した時、そこで自分で道を決めなければならなくなる訳である。

まあ、ギターに限った話ではないと思うが、生憎そこまで入れ込んでるものは俺にはギターしかない。
だから、ギター限定で話をする。

俺の基準で言って、ギターの脱初級者のポイントは「自分のスタイルが見えた時」であるといって良いだろう。
ギターには様々なテクニックが存在する。
タッピング(ライトハンド)、スウィープ、速弾きなどのフラッシーなテクニックから、逆にチョーキング、ビブラートといったエモーショナルなものまで様々である。
勿論、基本的には一通りこなせるのが理想的だ。
かく言う俺もそれなりにこなす事はできるし、そういうふうに練習したものだ。
そうやって身につけた技術の中から、自分が目指している方向性に合ったものを取捨選択できる能力が「脱初級者」の目安であろう。

俺は自分を「上級レベルギタリスト」だとは思ってはいない。
というか、そんなレベルのギタリストは世界でも数えるほどしかいないと思っている。
その基準がなんであるかは、自分が上級レベルになって始めて分かるだろう。
同じことで、初級者が脱初級者になった時、初めてその境目が見えるというのがギターの真理だと思う。

まあ、人間というのは面白い生き物で、殆ど命を賭けたものに関してはどれほど辛く苦しくても、それ以上に楽しさを感じるものだ。
これこそが物事を上達させていく最大のポイントだと思う。
この「楽しさ」が感じられない、或いは見つからないというのは、かなり不幸な事だと俺は考えてしまう。

かく言う俺は、始めたばかりの頃、14時間ぶっ続けでギターを弾きまくっていた事がある。
流石に最近はそこまで極端なのはないが、それでも1日3〜6時間は弾く。
義務感ではない、楽しくて時間を忘れるのだ。
おかげで寝不足になるなんてのはしょっちゅうである。
第一、こう書いてる傍から膝の上にギターが乗っている始末である。
無論、辛いとも苦しいとも思わないし、自分がおかしいとも思っていない。

最初に書いた通り、最近になってますますギターの難しさを実感している。
だが、それに絶望したり苦しさを感じたりはしていない。
むしろ嬉しくて仕方がない。
限界がない、先が見えないというのがこんなに心踊るものだってのは、そうなってみないと分からなかった事である。

しかし。

世の中には不思議な人間がいる。
つまり、可能性を自ら封じてしまう人間である。
今の自分の状態に満足して、先に進むのを止めてしまうタイプの人々。
どうも分からない連中である。

自分のスタイルを極限まで追及していくのと、可能性を求めて更なる先を目指すのとは矛盾する事はない。
何故なら、いずれも方法論が違うだけであって、目指すところが同じだからである。
究極が同じなら、過程が多少違ったとしても問題は起きない筈である。

だが、こういった自己満足でストップしちゃう人には、どうも自分の世界観の求道者タイプが多いようだ。
なんだかんだいって、俺も確実にそのタイプなので気をつけねばならないのだが。
取り敢えず道を極めようとするのは良いとして、あまり現在の自分に限界点を設けないほうが良いように俺は思う。

無論、過信するのはもってのほかだけど。

限界というのは自分で設けるものではあるまい。
何処までも行ける、果てしなく進める、と思ったものはやっぱり強い。
この点だけは常に気をつけておかねばなるまいと思う。

以上、自分に対する戒めである。


 

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