TOKYO GAME


竹書房という会社をご存知だろうか。
この会社、幾つか雑誌を刊行していたのだが、その中の一つに「近代麻雀(だったと思う…正確な記憶が無くて申し訳ない)」というのがあった。
タイトル通り麻雀漫画が目白押しなのだが、この漫画はその連載陣の中で、一際異色な光彩を放っていた。

さて、一応お断り致しておくが、実際に「近代麻雀」にて連載されていたかどうか、そこまで正確な記憶が無い。
そのあたりについては、2ちゃんねるだかにスレッドが立っていたりするらしいので、ご自分の目で確かめてみて頂きたい。
俺としては、どこで連載されていたなんてのは瑣末な問題なので、先に進めていく。

この漫画、何が凄いかと言って、あまりにも荒唐無稽過ぎて凄いのだ。
正直に言って、素で読んでいたら笑えてしょうがない。
その笑いは「ギャグ」とかのレベルではなく、本当に「こんな事マジで書くの!?」と言いたくなる笑いである。
理屈や理論など、そこには全く無い。
なにせ「決め」の場面では、大空に顔のアップが臆面も無く決まるほどだ。
スポーツ漫画のようなものなら分かる。
だが、これはただの麻雀漫画である、どうかしている。
どう考えても、笑ってもらうために書いたとしか思えないのである。
異様なハイテンションと演出、そして濃い絵柄。
どう考えてみても、完全に天然のギャグ漫画にしか見えない漫画である。

しかし、だ。

読んでいるうちに、何かが心に引っ掛かる漫画なのである。
通常、麻雀漫画であれば、そこで雀士達の駆け引きや場の流れの読み合い、或いは逆転を狙って繰り出すイカサマ技などがクローズアップされる。
だが、この漫画では、それら「麻雀」の要素は極めて希薄なのである。
極限まで薄められた麻雀の要素が、却ってこの漫画の主題を浮き彫りにする。

それでは、その主題とは何か。

それは、「信念」である。
主人公は弟をある研究のために失い、自らも命を狙われる。
だが、それに屈することなく、自らの信じる力に導かれ、最後の敵である「チェアマン」と戦うべく、「トーキョーゲーム」という過酷な麻雀に勝ち進んでいく。
まあ、おおまかな流れはこんな感じだ。
「トーキョーゲーム」とは麻雀のルールの名称で、言ってみれば地方ルールの事だ。
この漫画の時代、大地震によって人口と技術は大きな打撃を受けている。
荒れ果てた大地に生きる人間たちは、心も荒み果てていた。
そんな人間たちに生きる喜びを与えるものが、合法ドラッグである「ハレルヤ」という薬だ。
この薬を奪い合うゲーム、それが「トーキョーゲーム」である。
このゲームに負けた者は、その命を勝者によって奪われ、臓器の塊として叩き売られる事になる。

このサイバーパンクな世界観!
どう考えても麻雀との釣り合いは取れない筈なのだ。

ここで描かれるのは、主人公の「心の強さ」と、敵対する登場人物たちのそれぞれの「想い」である。
ある者は人間らしさを失い、主人公と戦う事で「恐怖」を思い出し、その満足感と共に自らの手で命を絶つ。
また、ある者は己の「強さ」に固執し、強敵を求めて戦い続け、ついに敗北を知り、その中で魂の安息を見出し死んでいく。
この構図、完全に「バトル系漫画」のそれであることに気がついただろうか。

この漫画に出てくる人物たちは、揃いも揃って壊れている。
だが、その壊れた原因を無視することなく、主人公と戦っていく中で、己の見失っていた原点に回帰していくのだ。
その中で、主人公は「己の信念」の強さで、強敵との戦いを乗り越えていく。
そんな主人公に惹かれていく、少年と少女というお約束のオプションも忘れない。
この漫画、麻雀という戦いの技法を駆使した、バトル漫画だったのである。

勿論、麻雀の要素もそこかしこに出てくる。
必要最低限の演出として、麻雀という「静」の緊張感を描く事も忘れない。
あらゆる要素が、非常にバランス良く配置されているのである。
そう考えてしまえば、確かに荒唐無稽ではあっても漫画自体のレベルは決して低くなく、それどころか「名作」と言っても差し支えないレベルの漫画であった。

最後から2番目にあたる戦いでは、ずっと主人公に憧れるだけだった少年が勝負の鍵を握り、本来負けていた戦いは結局主人公の勝利で終わる。
そんな「次世代の成長」という要素もしっかりと描かれている。
あらゆる意味で、ただの麻雀漫画ではなかったのだ。
違和感に大笑いしたのも、いまとなってみては頷ける話である。

とか言っても、今読んだらまた笑うんだろーな、俺。


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