〜〜世の理〜〜
ふ〜し


 昨日の夜、祖父が亡くなった。
 祖父の長子であるわたしの父を先頭にし、葬送の列はゆっくりと土を剥き出しにした田舎道の上を墓地目指して歩いていた。
 祖父の死顔は、とても安らかで、そしてどこか満ち足りたような表情だった。
 苦しまなかったのだろう。と父や母が話しているのを耳にしたが、わたしだけはその訳を知っていた。
 なぜなら。その日、祖父はついに念願をかなえたのだから。
         ※
 冬先に倒れてから、元気だった祖父は寝台で横になったままであった。
 あれ以来、祖父の世話をしている母と姉のほかは近づくことはなく、よく祖父の昔話を好んで聞きにいったわたしでさえ、入ることがはばかられた。
 あの時、厩で馬の世話をしていたわたしの元へ姉が来たときには、ついにそのときが来たのだろうと覚悟した。けれど、わたしを呼んでいるだけだと知って、わずかに安堵したものだった。
 とはいえ、その安堵のあとにのしかかってきたのは、倒れていらい部屋に入ることのなかったわたしを呼ぶという祖父の行為に対する不安だった。
「お祖父様、お加減はいかがですか?」
 わたしは、扉を二度ほど叩くと静かに部屋の中に入った。
 大きな寝台で横になった祖父は、うつろに天井を見つめていた。わたしは、その様子に差異を感じずにいられなかった。
 ゆっくりと枕元に置かれた椅子に座して、わたしは祖父の顔を眺めた。見ることができないうちに、皺が深くなり、白髪が増え、一気に老けてしまったようだった。
 しばらく、そうしていると祖父はわたしに気がついたのだろう、瞳をわたしへと向けた。
「ああ……すまなかった。あの時のことをまた思い出してしまっていたのだ……」
 人とは、こうまでも弱々しくなるのであろうか。祖父の消え入りそうな声にわたしは、胸を詰まらせそうになった。
「いえ、それより、あの時とは、お祖父様が旅をしていらしたときのことですか?」
「うむ……そのことで、お前に話しておきたい話があるのだ。この家で誰よりも、私の話を聞きたがったお前にな」
「わたしに……?」
 祖父の言う意味がわからずに、わたしは首を傾げるしかなかった。
「そうだ……これから、最期の昔語りをお前にしてあげよう。体を起こすのを手伝ってくれないか」
 祖父は、体を持ち上げようとする。
 わたしは、すぐさま手を貸した。祖父の体を起こし、枕でそれを支えると、祖父は深く息を吐いた。
「これは、私が旅を終えるきっかけとなったものだ」
 わたしは軽くうなずいた。祖父は満足げに、だが弱々しい笑みでわたしを見つめた。
「そう……あれは師に逢ってどれくらい経った頃であろうか……」
         ※
 若い頃の私は、この世界を構成しているものに非常に興味を抱いていた。
 いったい、この世の中が、なぜこのような形で存在していられるのかということに。
 つまり『世の全ての理』を知りたかった。
 その思いは、私が十九のとき、両親が亡くなったことで現実となった。
 私の両親は、しがない商人だった。だが、私の手元には、その店としばらくは食べるに困らない蓄えが残っていたんだ。
 元々商売をする気のなかった私としては、千載一遇の機会だった。
 葬式を終えると、すぐに店を売って、次の朝には旅に出ていたよ。
 いま思えば、どうしようもない親不孝かもしれなかったが、あの時は、世の理を追及することの方が重要だった。
 そうして、先人の知識が残っているといわれる場所を巡り歩いた。
 数年は一人で旅していたが、ある時、一人の老人に出会った。その人は、私の生まれる以前から、『世の理』を求めている人だった。
 そんな人ですら手に入れられないものが、私に手に入れられるのであろうか。
 私は、そう考えて落ち込んだものだった。だが、世界はあの時の私が知るよりも、もっと広いものだった。まだ残された場所は無数にあったのだ。
 私は、老人を師として共に旅することを決意した……
         ※
「それは、お前に話して聞かせただろう?」
 そう言って言葉を切ると、祖父は脇に置かれた水差しから、木製の杯へ水を注ぎ、渇いた口の中を湿らせようと一口飲んだ。
 わたしは、幼い頃から聞かされていた話を思い出すように、深くうなずいた。
 子供の頃には、世の理ということはわからなかったが、それでも見たことも聞いたこともない異国の風景を祖父の話から創造しては、そこに立つ自分を夢見ていたものだった。
「それから、師と私は、いくつもの国を渡り歩いていった……」
 祖父は咳払いを一つすると、再び話を続けたのだった。
         ※
「いかがでしたか?」
 朽ちかけた僧院から出て来た師に、私はわずかな期待をその端に乗せてたずねた。
 だが、そのときも、いつもと同じく師は首を横に振るだけだった。
 私も、肩を下げ落胆するしかなかった。
 師と共に旅して十数年。私も三十近い歳になっていた。すでに知られるだけで世界の七割を師は巡っていた。
 あと、残る場所に私たちの望むものはあるのだろうか。師も私も、半ば絶望していた。そんなものは、この世に存在していないのではないか。
 せめて、知るための手がかりだけでも欲しかった。
 あの女に会ったのは、そんな時だった。
 険しい山道だった。あの女は、一人で旅をしていると語った。
 『漂泊民』を知っているか?
 彼らは、何者にも縛られることのない者達だ。世界を放浪しながら、あるものは形あるものを売り、あるものは自分の才を売っている。ただ、彼らには帰る家はない。家を持つことは漂泊民を捨てること。再び縛られることになるからだ。
 女も、そんな者達の一人だった。
 私たちは、漂泊民に、だいぶ世話になっていた。家を持たず、旅をしている。という点で私たちも彼らと同じであったからな。
 漂泊民は漂泊民どうし、助け合うということが不文律となっていた。だから私たちも、その女を助けようとしばらく同行することにした。それに、彼らのもつ噂話などは、非常に役立つものであったからな。
 しばらく同行し、女は舞を売るものだとわかった。
 漂泊民の舞は、死者の魂を安寧の地へ送ると言われている。この世に迷うことのないようにとな。往く先々の葬送の場所で、女は舞を舞っていた。それは、とても美しく厳かなものだった。
 たがいの素性を知らないままに数ヶ月ほどしたある時だった。
 すっかりと夜も更けていた。私達は街道のはずれで火を囲み、食事をしていた。
 師は、意を決するような眼差しでわずかに私を見つめたあと、女の方を向いた。
「私たちは、『この世の理』を求めて旅をしているのだ。何か知っていることはないか?」
 師は頃合いと見たのだろう。
 漂泊民は、互いに干渉しあわないことも原則だった、自らが何を目的をしているかなど、よほど親しくならない限り語り合うことなどなかった。
 わずかな話を聞くだけでも、これだけの労力を使うことになる。師とて、めったには使わなかった。この同行も、女の身一つということを心配したからであったことだしな。
 師も、あきらめ半分で聞いたことだったのだ。
 それを聞いた女は、しばらく私たちを見つめてから、やがて小さな声で。
「知っている」
 と、それだけを答えた。
 私は、一瞬何のことなのかわからなくなっていた。
 あれほどまでに苦労して、求め続けたものが、このようなところで知ることができるなど、にわかには信じられないことだったのだ。
「それは真かっ!」
 師は、食い入るように女を見つめて叫んでいた。女は小さく頷くと、再びその関心を手もとの椀へと移していた。
 私は、女を見つめながら、この女が果たして何を考えているのかを計り兼ねていた。
「教えてくれ! どうすればいい? どうすれば、この世の全ての理を知ることができる!」
 師は、掴み掛からんばかりに女へ身を乗り出していた。無理もなかった。師も次第に体に無理がきかなくなっているようだったしな。自らの限界を感じて焦っていたのだろう。
 女は驚き、身をあとじさらせた。私は、慌てて師を抱え込むように抑えた。
「教えてくれ……」
 師の痛切な言葉に押されたのか。女は、わずかに悩むようなそぶりを見せてから、師を見つめて頷いた。
「早く、早く教えてくれ……」
 師のその言葉に応じるように、女は左手を師の額に乗せた。師は、いぶかしむようにそれを見ていたが、次の瞬間、目を見開き、やっと聞こえるほどのうめきを上げた。
「そうか、そうだったのか……!」
 そう呟いて、師は事切れた。満足げな笑顔を浮かべたまま。
 私は、背中に震えを感じながら女の顔を見た。人の命をたやすく奪うことのできる化物の顔があるかと思っていたが、そこには哀しげな瞳で師の亡骸を見る女の顔があるだけだった。
「どういう…ことだ……」
 湧き上がる恐怖は簡単に拭い去ることはできなかった。それでも、まだ緊張する喉で詰まりながらも私は、それだけを吐き出した。
「こういうことよ」
 女は、先程までと違う妖しく艶ある声で、なげやるように答えた。
「この男は、今『世の全ての理』を知ることができたのよ」
 女の視線が私を向き、再び師へ向けた。その眼差しは、羨望と悔しさがないまぜになったもののように私は思えた。
「何故だ、何故殺した?」
「まだ、わからないの?」
 女が、その碧の瞳を私へと向ける。その意味を図りきれずに私は戸惑っていた。
「……私も、かつてはこの男のように理を、『世の全ての理』を知りたいと思っていた……そのために不老不死の法に手を染めても、悔いはなかった」
「数十年、数百年。この世の全て。様々な場所を渡り歩いた。それでも、理を知ることはできなかった……」
 女は、過去へと思いを馳せるように、すっと天を仰いだ。
「けれど、その間に一つだけ解ったことがあった。それを知った時、私は我が身を呪った。自分の浅はかさにもね」
「世の理なんて、誰にも知ることができるものなのよ。そう、死ぬ時にね。肉体を捨てて魂となった時、すべてに溶け込んで世界と一つになれるのよ、理の一部に。いえ、すべてと言い換えてもいいかもしれないわね」
 女の瞳は、まだじっと私を見つめている。
「あなたも……今、知りたいのかしら」
 私はわずかに悩み、静かに首を横に振った。
「……賢明だわ。どうせ、いつか知ることのできることなら、急ぐこともないもの。私には、永遠に知ることのできないことだけど……理を外れたものへの、これが罰なのかもね」
 女は、自分を哀れむようにそれだけを言うと立ち上がった。私は何も言うことができず、ただ、去ってゆくその哀しい女の背中を見つめていた。
          ※
「それからだ」
 祖父のそのひときわ強い声に、私は現実にゆり戻された。
 まるで夢を見ていたようだった。
 若い祖父と、祖父の師である老人と、不老不死の女……
 まるで目の前で起こったかのように、わたしの中でその場面が繰り返される
「旅をやめた私は、この村に落ち着き、妻と出会い、お前たちの父親が産まれた。そして、いまは孫のお前に、こんな話をしている」
「お祖父様……」
「いつか、願いが果たせるとわかったのだ。ならば、この世でできることをやっておこうと思ったのだよ……すまないな。だが、誰かに話しておきたかった。お前に話すことができてよかったと思っているよ」
 そう言って、祖父は体を寝台に深く沈めると目を閉じた。「おやすみ」そう言って静かに寝息をたてはじめたのだった。
 そして、それが最後の言葉だった。
 翌日、祖父は思い残すことがもうなくなったかのように、息を引き取った。
 顔は、とても安らかなものだった。
         ※
 葬送の列は、墓地へと入っていった。様々な形の墓の並ぶ一角に、深く四角く掘られた穴が口を開けていた。その脇には、磨かれたばかりのように白い墓石が置かれていた。
 棺を穴の中へゆっくりと下ろす。
 しばし、わたしはそれを見つめていた。父達が、棺の上へ土を一度ずつ掛けはじめる。わたしも、それに習った。
 それから、祖父の眠る棺が土の中へ返ってゆく様子をわたしはただ黙ってみていた。
 祖父の棺が、完全に土の中へと還る。それを示すのは白い墓石、そして四角く区切られた土の色だけだった。
「どなたのお葬式でしょうか」
 気がつくとわたしたちの背後に女性が一人立っていた。澄んだ、落ち着いた声がそう言った。
 そしてゆっくりと、わたしの隣にいる父へと近づいてくる。
「私の父が、昨日なくなりまして」
「そうですか……できたら私に、舞わせてはいただけませんか?」
 そう、微かに懇願するような口調で言った。父は、わずかに迷ったあと小さくうなずいた。
 この村でも、漂泊民の葬送の舞を死者の前で行なえることは、名誉なこととされていた。とはいえ、いつ訪れるのか知れない漂泊民を頼るには、人の死はあまりにも突然過ぎて、それを行なうことは、ほとんど無いに等しかった。
 女性は、深々と礼をする。わたしたちは女性を囲むようにして離れた。
 自らの舞台を確認するように、女性は視線を一渡りさせると、おもむろに腕を上げ、舞いはじめたのだった。
 漂泊民の葬送の舞を見るのは、わたしにとって初めてのことだった。それは、わたしが今まで見た中でなによりも美しいと思えるものだった。
 祖父の葬式であることも忘れて、わたしは魅入られていた。
 そして、舞の終わり。
 女性は、再び深い礼をした。
 全てが終わり、周りの人々が、ゆっくりとこの場を離れていった。
 すでにこの場所に残るのは、もうわたしたち家族と漂泊民の女性だけになっていた。
 わたしは、女性へと目を向けた。
 あの美しい舞を見せられて、気になってないとは言えなかった。
 女性は、いまだ墓の傍らに立ち、まっすぐ祖父の埋まる所へ視線を注いでいた。
 わたしの気のせいかもしれなかったが、その表情はどこか、ここに眠る祖父を羨むような風に思えた。
 不意に父が、わたしを促す。
 もう、ここを去らねばならないようだった。
 いつでも来られる所ではあったが、去ってしまえば、わたしの祖父に対する気持ちが薄れてしまうようだった。
 もう一度、父がわたしの名を叫ぶ。
 墓に背を向けて、後ろ髪を引かれるような思いでそこをあとにする。
 名残惜しむように、わたしは祖父との記憶を確かめながら一歩一歩足を進めた。
 そして、十数歩目を踏み出した頃だろうか。
 その時、わたしは不意に思い出していた。たった一日前に祖父から聞いていたことを。
 いまだ、女性は祖父の傍らにたたずんでいるのだろうか。微かな期待を抱きながらわたしは立ち止まり、もう一度女性の方へと振り向いた。
 女性の姿は、やはりそこにはなかった。
 父が、不思議そうにわたしを呼びつける。
 けれどわたしは、日が暮れはじめ空が橙色に染まってゆく中で、祖父の墓の方を見続けていた。
 手の届かぬものを求める、永遠の漂泊者のいた場所を。
(了)
 


ここから戦略的撤退を行う