〜〜星野つかさ(みこと)〜〜

泉 優驥


降星祭〜いつか見た星の煌めき〜

【星野つかさの章】


プロローグ
8月8日


 遠い昔。
 遠い昔の記憶。
 具体的に何年前とは思い出せない。
 ただ空には幾万もの星がきらめき、優しい光を放っている。
「星降る夜には、精霊様が来るんだよ」
どこかで聞いた声が脳裏に響く。声のする方を見るが、辺りは暗く、
誰が声を発しているのか理解できない。いや、考えなくとも知ってい
る。この声はとても知っている声だ。
「いいかい?この星降る夜は聖なる夜。精霊様が幸せをくれるんだ」
優しく伝えてくる言葉。その声はなつかしもあり、そして忘れていた
声。だが科学の発達したこの世の中、精霊などいるわけがない。
 しかし、口からでた声は全く違う感情をこめたものだった。
「精霊様はどこにいるの?」
幼い子供の声が無邪気に訊ねる。彼にとって、精霊様はあこがれであ
り、そして夢の世界の住人だった。
「それはね、お星様と一緒にいるんだよ。でも、忘れてはいけないよ。
 精霊様はいつでも私達を見守ってくれているのだよ」
「へぇ〜・・・会いたいな〜精霊様に」
「きっと会えるよ。精霊様に会いたいと願っていればね」
「ほんとう?」
「ああ、本当さ。忘れては行けないよ。この聖なる夜を。精霊様のこと
 を忘れてはいけないよ」
「うん!ボク、絶対に忘れないよ!!」


それは、幼きときの夢。願い。

純粋な心が願う。憧憬。そして───────


 ふと気づくともう終点だった。守塚悟(もりづか さとる)は車掌に
おこされて、目を覚ました。
「お客さん。もう終点だよ」
「あ・・・ああ・・・」
まだ頭がボヤーとしている。そんな彼を見かねた車掌が声をかける。
「お客さん。降りないと往復してしまうよ?」
 ようやく頭がはっきりとしてきた。何か夢を見ていた気がするが、覚
えてない。彼は人の良い車掌の顔を見ながら
「ええ。降ります。ご親切にどうも」
と手荷物をとり、列車を降りた。夏の太陽があたりを照らし出している。
 プラットホームの手すりから、外を眺めてみると景色が揺らいで見え
ている。悟は大きく深呼吸した。そして、照りつける真夏の太陽を目を
細めながら見上げる。そして、ようやく実感するのだ。
「また帰ってきたんだ。この街に」
 懐かしさが胸一杯に広がる。数年ぶりに帰ってきた街は、どこか変わ
ったように思える。だが、駅のつくりや見渡す街並みは彼の記憶とさほ
どの相違が見あたらない。
「変わったのは、俺の方かな?」
誰にともなくそう呟く。駅名を記す看板は「逢瀬町」とある。そう、確
かにこの名前の町だ。
 夏の空気を再び胸一杯に吸い込んではきだす。都会とは違う、自然の
匂いがする。郷愁というものだろうか。数年ぶりとは言え、心では懐か
しさが大きい。
「今年こそは、この手におさめなきゃ・・・」
 と、背後のリュックに手を伸ばす。取り出したのは、古い型の一眼レ
フカメラだった。ファインダー越しに見える街は、どこか違う街のよう
に思えた。手が自然とシャッターにまわり、カシャと音がなる。
「これも、思い出になるのかな・・・」
写真というものが好きな割には、どこか写真に対して冷めた見方をして
しまう。確かに、写真はその瞬間瞬間を鮮やかに残してくれる。
 けれども、人間には「記憶」がある。大事なものならば、しっかりと
その目に覚えておけばいい。時が経てば色あせてしまう写真とは違い、
記憶は鮮明にその当時を思い出させてくれる。
「けど、今年は撮りたい」
悟が思いであるこの街に帰る理由を作ったのは、他でもない流星群のニ
ュースだった。今年は、地球に流星群が一番迫る年であり、その瞬間を
カメラにおさめたい一心で、この街に帰ってきたのだ。
 さらに理由を言うならば、彼の記憶の中で星を一番綺麗に眺めること
ができる街が、この街なのである。元々、彼の父親は所謂転勤族であっ
たため、各地を転々としなければならなかった。それだけに、悟も様々
な街をいくことになる。他の街はなぜか記憶に薄いものばかりだが、こ
の街だけは別だった。
 小さな頃に一度流星群を見てから、彼はこの街が一番星を鑑賞するす
るのに適していると思っている。そして、この街では星を大切にしてい
ると記憶している。夏に一度だけ、街をあげて盛大にお祭りをするのだ。
「降星祭」と呼ばれているその祭りは、幼い頃の悟の目に焼き付けられ
ている。星神様と呼ばれる神を崇めているこの街は、流星群が一番地球
に接近する今年、最も盛り上がる祭りをすることだろう。
 悟自身もこの盛大な祭りには行ったことがある。子供の時に見たこの
祭りの夜はとても忘れられない思い出だった。街を彩る様々な灯りの下、
人々は行き交い、屋台の声は絶えず聞こえてくる。
 そして、夜も更けてくる時間に一斉に街の灯が消える。人々は固唾を
のんで夜空を見上げる。その星空には多くの流星が瞬いて人々を感動さ
せる。悟も忘れらることのできないあの星のきらめき。
 子供心にでも美しさと感動を与えてくれた星の光を今でも覚えている。
だからこそ、星の美しさを伝えたかった。星のきらめきすら知らない、
いや、知っていたとしても気づかない人達に美しくも儚い一瞬の光を。
 駅の改札を出て、彼は街を歩くことにした。覚えている限りの場所を
確認したかったのだ。懐かしさと、どこか街が変わってしまったという
少しばかりの悲しみを覚えつつ、悟は街を歩いていた。
 祭りがすぐ近くまで来ていることもあり、街は祭り一色になりつつあ
る。出店の用意をする人々、お囃子の練習であろうか笛や太鼓の音も聞
こえてくる。
『悟くん。今年も会いに来てくれたんだね?』
ふいに、誰かに呼ばれた気がした。足を止めて、辺りを見渡すが悟を呼
ぶ人の姿はない。
「気のせいかな?」
と、歩き出そうとしたその瞬間、脳裏に何かが浮かんだ。
「今のは・・・・・」
人の顔のようであったが、我に返るなりその顔は霞のように消えてしま
った。心が何かを訴える。何かを伝えようとしている。だが、思い出せ
ない。思い出してはいけないとも思えるし、思い出さなければいけない
とも感じる。
 心の葛藤とでも言うべきか。なぜだろう。心が落ち着かない。
「なんだろう今の感じは・・・」
 考えてみるが、どうしても思い出せない。仕方なく彼は考えることを
やめた。重要なことであれば、すぐにでも思い出すであろうから。そう
自分に言い聞かせると、彼は再び祭りの色に変わりつつ街の中を歩き出
した。
 駅前を中心にある大通りを見て回る。これといって変わったことはな
いようだった。露店はどこにでもあるようなものであるし、商店街の配
置などは実のところあまり覚えていない。
 一回りもすると飽きてきた。まだ祭りの本番ではない。これと言って
興味を引かれるようなものがあるわけでもない。午後の日差しは容赦な
く悟を照らし出す。
「ふぅ。暑いなやっぱり・・・」
商店街の影で汗を拭う。背中に背負った鞄の重みと、外気の暑さにまい
りそうだった。時計を見ると、午後の二時半。一番暑い時間帯だ。
 ふと視線をあげると、街の奥に山が見えた。それほど高そうな山では
ない。そして見える赤い鳥居。悟の脳裏に何かが閃いた。うっすらと見
える微かな記憶。悟は無言で歩き出した。その鳥居に向かって・・・・
 耳に聞こえるのは人の話し声。祭りを前にして誰の声も浮かれている。
そして蝉の鳴き声。だが、その声も悟の耳には入らない。何かに導かれ
るように悟の足は鳥居に向かって進んでいく。
「あの、もしかして守塚悟さんですか?」
騒がしい商店街の声も耳に入らないはずの悟に、その声はしっかりと聞
こえた。ゆっくりと声のしたほうに振り向いてみる。
「あの・・・・守塚悟さん・・・ですよね?」
「え?」
 悟は足を止めた。途端に騒がしさが耳に戻ってきた。白い日傘を差し、
吹く風に長い髪をゆだねている少女がこちらを見ている。
「あ、あの・・・人違いだったらすみません」
慌てて頭を垂れ、少女は立ち去ろうとした。それを、悟は呼び止めた。
「ちょ、ちょっと・・・俺は確かに守塚悟だけど・・・君は?」
早足に立ち去ろうとしていた少女が立ち止まり、ゆっくりと振り向く。
「悟・・・さん?」
「うん。俺、守塚悟だけど・・・・」
白い日傘の中から、空色の帽子が見えた。
 大きく少し夢見がちな瞳が印象的だった。悟の脳裏に一人の女の子の
姿が浮かんでくる。その瞳が一致している。
「もしかして・・・・愛美ちゃん?」
恐る恐る脳裏に浮かぶ女の子の名を呼んでみる。少女が微笑む。何もか
も包み込む穏やかな暖かい笑み。
「うん。そうだよ。悟さん」
 その少女────涼宮愛美(すずみや めぐみ)は嬉しそうに、そし
てどこかはにかむように微笑んだ。その仕草も変わってなかった。
 愛美は悟のはとこに当たる。父親が転勤族であるため、友人呼べる人
が数少ない悟にとって、彼女の存在は大きいものだった。彼女がいたか
らこそ、この街は悟の記憶にもしっかりと残っていると言っても過言で
はないだろう。
「久しぶりですね」
と悟も微笑む。白いワンピース、帽子と同じ空色のスカートに身を包ん
だ愛美は少しだけ頬を朱に染めた。
「うん。悟さんも元気そうで良かったです」
「どうし・・・」
そこで、悟は言葉を切った。「どうしてここにいるの?」と言いたかっ
たのだが、悟のいるこの逢瀬町は愛美が住んでいる街なのだ。愛美がい
てもおかしくはなかった。
「もしかして、お使いでも来たの?」
言葉を変えて聞いてみる。愛美はゆっくりと頭を左右に振る。長い髪が
それに合わせて散らばる。
「お母さんに頼まれたの。もうすぐ悟さんが駅に着く頃だから、迎えに
 行ってって・・・・」
「そうなんだ」
「うん。悟さんのお母様から連絡があったんです。悟さんは昔から思い
 ついたら後先考えずに行動するから、泊まる場所まで考えていないだ
 ろうと・・・・」
「あ・・・そう言えば」
悟は頭に手を当てた。流星を撮りたくて家を飛び出したのはいいが、母
親の言うとおり宿泊先までは考えていなかった。まあ、シュラフなどは
持ってきているから、どこかで野宿はすることができる。
 悟の表情を見て、愛美はおかしそうに笑う。悟も照れ笑いをする。
「悟さん。変わっていないんですね」
「そう?」
「はい。あの頃と同じです」
昔を思い出したのか、クスクスと笑う。
 悟は少し恥ずかしかった。色々と過去の事が一気に思い出されてしま
ったのだ。きっと、目の前の少女も同じ事を思い出したのだろう。それ
がまた恥ずかしかったのだ。
「悟さん」
ふいに、愛美が悟を呼んだ。悟は恥ずかしい過去を思い出し、まだ苦悶
と後悔の表情であったが、それでも愛美の声には答えた。
「何?」
「お荷物重そうですね」
「ん?ああ・・・これ?」
と悟は背負ったリュックを指さす。
「そんなに重いものじゃないよ。必要最低限しかいれてないから」
愛美はゆっくりと悟に近づいた。風に乗り、愛美の甘い香りが悟の鼻を
くすぐる。女の子に対して免疫のない悟がドキドキするには充分な甘さ
であった。
「私、少しお持ちしますよ」
「い、いや・・・女の子に重いものを持たせるわけには行かないよ」
 悟の言葉に愛美は再び笑みを浮かべた。
「ほら。やっぱり」
「あ・・・」
愛美に背にした荷物が「重い」ということを言ってしまったのだ。
「長旅でお疲れでしょうから、私が荷物を持ちますよ」
実際、悟の疲労の大半は背にした荷物から来ている。暑さなどは我慢で
きるが、荷物の重さだけは変えられない。
「でも、これ結構重いよ」
遠慮がちに悟は言うが、愛美は取り合わない。
「大丈夫ですよ。私こう見えても結構力あるんですよ」
と胸を張ってみる。悟はなんとなく聞いてみた。
「高校で何の部活をやっていたの?」
「弓道部です」
弓を引くときは確かに力を必要とするだろう。だが、それでも背にした
荷物はどう見てもそれ以上の重さがある。ちなみに付け加えるが、悟の
荷物は何も背中にあるリュックだけではない。
 肩からはフィルムの代えや、レンズ数本を入れている。総合してみる
とかなりの重さになっている。
「やっぱり、自分で持つよ」
「そんなこと言わないでください」
と言って、愛美は荷物を持つつもりだった。それでも悟が頑として譲ら
ないため、ため息を一つついて
「じゃあ、その肩かけている荷物だけでも・・・」
と肩に下がっている荷物を半ば強引に取って、そして重さに耐えかねて
座り込んでしまう。反動で手にした日傘が後ろに落ちる。
「あ、あの・・・愛美ちゃん大丈夫?」
「へ、平気です」
と強がっているが、どうみても立つことすらままならない。
 う〜ん・・・う〜ん・・・と唸っているが、荷物を持つどころか立つ
ことさえできないのだ。悟は無言で愛美の手にしている肩掛け鞄を手に
した。再び悟をずっしりとした重さが襲い掛かる。
「ほら。大丈夫?立てる?」
と肩にしっかりと担いで、愛美に手を差し出す。
「あ、ありがとうございます」
と愛美は悟の手を借りて立ち上がる。立ち上がり、埃を払って落ちた日
傘を拾い上げる。
「け、結構重いんですね。悟さんの鞄」
悔しさと、悟に少しの驚きを顔に表して愛美は呟いた。悟は肩にしっか
りと鞄をかけ直し、
「そうかな?」
と首を捻った。確かに荷物は重いが、それでも持てないことはない。
 この重量で全力疾走をしろ、と言われれば無理になるが普通に歩くな
らばそんなに問題にはならない。その程度の重さだ。
「俺、慣れているからから」
と愛美に向かって伝える。愛美は右手の人差し指を顎に当て、何か考え
ているようだったが、それでもゆっくりと首を左右に振る。何か結論が
でたようだ。
「そうですね」
とだけ言う。何かひっかかるものもあったが、悟はそれ以上何も訊かな
かった。訊く必要もないと判断したのだ。
「少し早いですけど、うちへ行きますか?」
と愛美が問いかける。悟は一刻も早くこの重さから解放されたかった。
だが、どうしても先程の鳥居が気になって仕方ない。視線だけ鳥居に向
けてみる。
 鳥居は確かにそこにある。重さから解放されて身軽にはなりたい。そ
れでも心のどこかで鳥居に向かうべきだ。と訴える自分がいる。
「俺、もう少しだけこの辺りを回ってみたいな。何か変わっているかも
 しれないし」
口から出た言葉に悟自身も驚く。愛美は少しだけしゅんと気を落とした
ように見えたが、それでもいつものように
「そうですか。それでは私、お買い物してきますから・・・そうですね。
 二時間後にまたここでお会いしましょう」
悟は頷いた。愛美は商店街の方へと去っていった。
 残された悟はしばらく愛美の背中を見ていたが、やがてきっと表情を
引き締めて鳥居に向かっていった。

 鳥居への入り口は木々の生い茂る森だった。道はあるにはあるが、そ
れでも苔や植物などが覆っており、僅かに石畳が覗く程度である。悟は
何かに導かれるように足を踏み入れていく。
 次第に商店街などから聞こえる音が小さくなる。商店街にいた時には
離れていても近くにあるように聞こえていたはずの、お囃子の音も聞こ
えない。閑散とした静けさの中を一人歩いていく。
 道は緩やかな坂道となっており、木々の木陰は歩くには丁度良いくら
いの涼しさを出している。悟は日陰を伝うように歩き上る。記憶のどこ
かに残っている場所。そこを目指して彼は歩いている。
 辺りを覆う木々は自然のトンネルを造りだし、一種の特殊な空間にな
っている。外界との接触を拒み続けてきたような神秘的な空間。このト
ンネルの先には、特別などこかに繋がっている。そう思わせるような不
思議さを持っている。
 あれほど五月蠅かった蝉の声も遠くに聞こえる。
(まるでお伽話に出てくる魔法のトンネルだな)
そう思わざるをえない。そう言う場所を悟は歩いていく。
 緩やかな坂はやがて、階段にさしかかった。空を見ようとしても木々
が覆い被さり、わずかな陽光だけが木々の隙間を縫って差し込んでいる。
幻想的な光景に、どこか心弾ませて彼は階段を上り始めた。
 一段一段ゆっくりと、確かな足取りで階段を上っていく。陽光が一筋
の光の矢となって彼を照らし出す。それは時折彼の目に差し込んで、階
段を踏み外しそうにさせたが、それでも彼の足を止めるほどの効果をも
たらすことはなかった。
 上を見る。苔に染められた緑色の石段。木々に閉ざされているはずの
その光景の先に、光が開かれている。木々の間。空が開かれている。流
れる入道雲。空の青色。都会では忘れ去っていた色。
 黙々と階段を上る。空の見える場所を目指して。一歩一歩その足を踏
み出す。見える空は段々大きくなっていく。悟は自分でも心が浮きだっ
ていることに気づいた。
(なんで、こんなに心が・・・そう、わくわくしているのだろう)
単なる興味で鳥居を目指していたはずだった。そのはずだった。だが、
自分でもわからないうちに心は躍り、弾んでくる。何かその先に自分の
興味を示すような物があると知っているかのように。
 階段を上っていく。高鳴り踊る心。悟は次第に早足になっていた。ゆ
っくりと踏み出していた足は、その速さを増していく。背負っている荷
物の事など忘れ、悟はいつの間にか走り出していた。
 呼吸が乱れる。荷物という自分の体重以外の重さがあるせいもある。
だが、心の高揚はそれだけではない。
 開かれる空が大きくなっていく。その高見を目指して彼は走る。階段
を走って上っていく。光が大きくなる。大きくなっていく。
「ああ・・・・!?」
ついに空が開かれた。急に眩しさを増した場所で、悟は思わず目を閉じ、
そして腕で目を覆った。
 ゆっくりと腕を下げ、そして目を開ける。周囲を見渡す。朱の柱があ
った。視線を眩しさに目を細めながら上げていく。
「これが・・・・」
鳥居があった。彼は鳥居の真下にいたのだ。
 記憶にあるどこかで見た場所。ここに来たことがある。そう彼は思っ
ている。いつ来たのかはわからない。だが、体のどこかでそれを告げて
いる。それを証拠とするように、彼は歩き出した。ゆっくりと。
 自分の足がどこへ自分を連れていくのか。それすらもわからない。そ
れでも悟はゆっくりと境内を歩いて回る。神社としては少し大きい。鳥
居をくぐり、本殿までは少しばかり距離がある。本殿の横にはいくつか
の倉らしきものが見え、その奥に社務所らしきものもある。
 悟のすぐ横を誰かが走っていった気がした。ハッとして見るが、誰の
姿もない。足音も聞こえない。
「気のせいかな・・・」
自分が長旅で疲れている。そう自己完結する。そしてまた足の気の向く
まま身を任せる。
 聞こえる蝉の声。日の光は彼を照らすが、それでも暑いとは思わない。
高台にあることもあり、下にある商店街とは違い、蒸し暑さがない。純
粋に日光の暑さだけである。
 本殿の横を通り抜け、神社の裏に回る。思ったよりも閑散としている。
人の気配がない。そうとも思えるような神社の裏側。それでも悟は歩い
ていく。神社の裏側には特にこれと言ったようなものはなかった。だが
悟の足はその歩みを止めない。
「ここは・・・・?」
 やがて、裏庭と思える広い空間にでた。手すりが見える。ゆっくりと
手すりによっていく。下を覗けば、先程上ってきた階段がちらりと見え
る。余りにも急な勾配のため、人が落ちないようにと手すりがあるのだ
ろう。悟の関心は手すりにはなかった。手すりから見える空にあった。
「ここは・・・そうだ!」
一つの記憶が蘇る。幼いときの記憶。この街にいた頃、彼は両親に連れ
られてこの場に来たことがある。
「ここだ。俺が子供頃、毎年来ては星を眺めていた場所。俺の知ってい
 る限り、空に最も近くそして星が一番見える場所・・・」
幼いときに目にした星空が脳裏に浮かぶ。街から離れ、また高所にある
ため、星の光を遮るものは何もない。淡い月明かりと、そして瞬く星の
煌めき。そして────────
「へぇ〜・・・君もここが絶好の場所だって知っているんだね」
突然声が聞こえた。思わず辺りをきょろきょろと見てみるが、誰の姿も
ない。さっきの声は女の子のもののように聞こえた。けれどもその姿が
見えない。
「君は知っているんだね。この場所が星に一番近く、そして・・・」
「だ、誰?」
悟は手すりを背にして声の主を捜し求める。
 声の主はもったいぶるように声だけを悟に届かせている。
「誰なんだよ?」
「うふふふ・・・さて誰でしょう?」
悟の知っている人の声ではない。当初は愛美かとも思ったが、彼女がこ
のような悪戯をするとは思えない。かと言って、他に悟の知っている人
がこの街にいるわけでもない。
 悟の脳裏に、一つの単語が浮かび上がる。それは、悟自身も今まで思
いもつかない言葉だった。
「もしかして、伝説の精霊様?」
恐る恐るたずねてみる。そして悟自身、自分の口から出た言葉に驚いた。
 子供の頃に聞かされた精霊の話。まさか、今になって浮かんでくると
は当の悟自身信じられないことだった。
「アハハ・・・違うよ〜違う違う。こっちだよ!」
悟の言葉が真剣だったためか、その声は笑っていた。明るい声。夏の太
陽のような陽気な声。悟が声のする方を振り向く。
 今まで気づかなかったが、神社の脇に石碑があった。立派なそれは、
悟の身長よりも高く、何かが奉ってあるようだった。
 その石碑の上に、人影があった。悟の位置からは逆光になるため、そ
の姿をしっかりと確認することは難しい。目を慣らし、その声の主を見
ようとする。
「君は・・・・」
悟が言葉を最後まで言うよりも早く、声の主は伝えてくる。
「君もここが最高の見学場所だって知っているんだね?ボクしか知らな
 いと思っていたよ」
 石碑の上に腰掛けているのは少女だった。口元に手を当て、笑ってい
る。ボーイッシュなショートカット。くりくりと動く大きな瞳。そして
何よりも彼女の正確を表すように、表情がいきいきとしている。
「君は・・・・・?」
と悟が何か聞こうとしたその瞬間。そう、まさにその瞬間だった。
「こら〜〜〜!!この放蕩娘が!!!」
と雷のような怒鳴り声が響く。突然のことに悟は身をすくませてしまっ
た。そして、少女の方を見る。
「きゃ!?」
いきなりのことで、少女がバランスを崩す。手をばたばたと振り回し、
懸命にバランスを取ろうとしている。だが、
「アブねえ!!」
悟は駆け出していた。少女がついに石碑から落ちてくるのだ。
 少女は重力のなすがまま落ちていく。悟は荷物をその場に落とし、少
女に向かい走った。手を伸ばし、少女を抱き留めようとして────
「むぎゅ・・・」
 少女は見事に悟の上に落下した。つぶれた蛙のような情けない悲鳴を
あげる。少女はきょとんとし、しばらく放心状態にあった。
「あ、あの・・・」
申し訳なさそうに少女が悟を覗く。悟は目を回しながら一言だけ呟いた。
「お・・・重い〜〜〜」
 少女の顔が真っ赤になる。言うまでもなく怒気にである。わなわなと
拳を振るわせ、俯く。そして
「し、失礼ね!!バカ!!」
とマウントパンチ一発。そのパンチは悟の後頭部にヒットした。悟は逃
げようにも逃げられない状態にあったため、そのパンチを喰らうことに
なった。そして、鈍い痛みと供に、悟の意識はブラックアウトした。


「ここはね、一番お星様がキレイにみえるんだよ」
 誰かが彼に呟いた。彼の目に映るのは、星の煌めき。優しい月明かり
と星の煌めきが彼と、少女を照らし出していた。
「へぇ〜・・・知らなかったよ」
素直に彼は感想を言った。見上げればいつでも見えるはずの星。それが
この場に置いては神秘的でもあり、また感動を与えていた。
「君だけだもん。毎年ここにきてくれるのは」
 少女が少し悲しげに呟く。顔を伏せ、その表情は見えない。
「ボク、せいれい様に会いにきたんだ」
「精霊様?」
「うん」
 少年は少女を見ながら元気良く自分が来た理由を少女に語った。
「へぇ〜・・・精霊様ね」
少女が少年を見定めるように見る。その顔にはもう悲しみはなかった。
ただ、好奇心を惹かれたのか、少年を見つめている。
「もしかして、君がせいれい様?」
少年が訊いてみる。確かに少女の着ている服は普通の服には思えなかっ
た。思えば、少年は少女のことを知らなかった。幼い少年の心には少女
の来ている服の色合いなどから単純にそう思っただけであるが・・・・
 少年は両親に教えられた星が見える場所にただ来てみただけなのだ。
そこでいつの間にか一緒にいるようになった少女。家も知らなければ、
彼女が帰るところを見たことすらない。
「ねえ。もし私が、君の言うせいれい様だったら?」
 どこか艶やかな目をして少女は少年に訊いてみる。その顔は少年が赤
面するほど、不思議な魅力があった。
「んとね。その時は・・・・・・・」
その時は・・・少年は何を言ったのだろう。今になれば思い出せない夏
の思い出となってしまったあの夏の夜のこと。


 また、何か懐かしい夢を見ていたようだ。思い出せないが、それはと
ても懐かしくあり、そして大切なことのように思えた。だが、思い出す
ことができない。儚い幻のように、目を覚ますと消えてしまったのだ。
 悟は顔を横にしてみた。額から何かが落ちる。白いタオルのようだ。
悟は自分がなぜ寝ているのかわからなかった。障子の外には木々の生い
茂る森が見える。そして、鳥居の朱の柱も見える。
「ここは・・・」
 悟は呟いた。まだ夢を見ているようにその言葉もはっきりとはしてい
ない。頭がぼんやりとしている。
 悟が状況を把握できないうちに障子が開き、一人の巫女装束の少女が
顔だけ覗かせた。その目は心配そうに悟を見ている。
「あ、気づいた!」
悟と目があうなり、少女は元気良く障子を開け放った。外から風が入る。
夏の熱気を含んだ風は、悟の顔を優しく撫でていく。
「おじいちゃん。おじいちゃん!」
少女が廊下に出、その手を口に当てて誰かを呼んでいる。
「気づいたよ。あの人!!」
やがて、盆に茶を淹れた湯飲みをのせて初老の男が一人入ってきた。
「おお、気づかれましたかな?」
穏やかなその口調であるが、それでも悟を心配してくれていたのだろう。
安堵の声にも聞こえた。
「ご気分はいかがですかな?」
 悟が身を起こし、茶を一口啜ると男は頃合いを見て訊ねてくる。
「え、ええ・・・大丈夫です」
まだ現状が分かってない悟はそう答えるしかなかった。
「うちのバカ娘が御迷惑をおかけしたそうで・・・・どうもすみません」
深々と頭を下げられ、悟はどうしていいのかわからなかった。
 男の隣では、少女がむっとして男を見ている。男はそれを無視し、
「ほら。お前からも謝らんか」
と促した。少女は男をしばらく睨んでいたが、悟に向き合うと
「あ、あの。助けていただきましてありがとうございます」
と頭を下げた。悟にはなんのことだかわからない。ただ、頭が少し痛い。
「あの。俺、何かしましたか?」
その言葉に男も少女もきょとんとした。だが、すぐに少女が話を切りだし
た。悟に近寄り、ゆっくりと告げる。
「ボクが石碑から落ちて、あなたに助けられたんです」
そこまで言われ、悟はようやく合点がいった。そうだ。俺は確かにこの娘
を助けようとして走り出して・・・だが、不思議だった。なんで頭が痛い
のだ。腕で抱きとめようとしたのに、なんで頭が痛いんだ?
 視線を感じて、悟はその先に目をやる。少女と目があった。少女は慌て
て視線を横に転じる。不審に思い、しばらく少女を見ている。
「うちの放蕩娘がどうかしたのでしょうか?」
男の声に、悟は視線を戻した。どこか気恥ずかしい。別にした心があるわ
けではないのだが、それでも顔が赤くなってくる。
「い、いや・・・別に・・・」
「後頭部に手を当てていられますが、まだ痛みますか?」
「え?」
男の声に悟は目を上げる。男は静かに茶を飲んでいる。
「お、おじいちゃん!」
少女が立ち上がり、祖父に駆け寄っていく。手をばたばたと忙しなく動か
し、何かからそらそうとしている。男は気にもとめずに
「うちの暴力娘があなたの背中に落ちたとはいえ、さすがに頭でも打ち付
 けましたかな?見ての通り、遊んでいますのでおそらくはまた体重でも
 増えたのでしょう・・・・」
したり顔で言いのける祖父の言葉に、少女の顔が真っ赤になる。気恥ずか
しさと言うよりも、怒気と言うべきものである。
「失礼ね!ボクは太ってないわよ!」
 そして、祖父と少女の言い合いが始まるのであった。悟はただ、傍観す
るしかなかった。
「あ、あの・・・」
悟がようやく声をかけることができると、二人は悟に向き合った。
「これはこれは、お客さんの前で失礼した」
「いや・・・」
「そう、申し遅れましたな。私はこの神社の宮司を勤めております。星野
 道真(ほしの みちざね)と申します。そして、この楽天娘は私の孫、
 星野つかさと申します」
と悟はようやくこの人物の名前を知ることとなった。
 悟は座り直し、二人と向き合った。
「あ、俺守塚悟と言います。すみません。なんだか御迷惑をかけてしまっ
 たようでして・・・」
「いやいや。悪いのはこの人生螺旋階段娘のしたこと。こちらこそ、すみ 
 ません」
と道真は頭を下げた。悟はどう対応して良いのかわからなかった。
「ほら、お前も謝らんか」
祖父に言われ、少女も慌てて頭を下げる。
「す、すみませんでした!」
本当にすまなそうにしている。
 表情がコロコロと変わるその少女を見、悟は面白い娘だなと思った。感
情が豊かな娘なのだろう。この周りの自然に囲まれて育てば、少なくとも
変な道にはいかないのだろう。
「いや、あの。気にしてないから・・・・」
と悟は内心で慌てていた。何もしていないのに、こんなに頭を下げられて
は気が気でない。
 視線をあちこちにまわすと、柱にかかった時計に目が止まる。時間は、
夕方の5時を過ぎていた。悟の顔から血の気がひく。
「お、俺もう行かなきゃ・・・」
「何かお急ぎでしたか?」
「あ、そう言うわけではないのですが・・・ちょっと人と待ち合わせをし
 てまして・・・・」
愛美はすぐに怒るような娘ではないが、約束した時間を過ぎていれば怒る
のも当たり前になってくる。
「そうですか・・・身なりから言いまして、この街には観光にですか?」
「え?ま、まあそんなところです」
男の言い方は穏やかであったが、なぜか悟には心にひっかかるものがあっ
た。聞いてみたいとも思ったが、それでも愛美の顔が脳裏に浮かぶ。
「そ、それじゃ俺はこれで・・・・どうもお世話になりました」
近くにあった荷物を背負い、悟は礼を言ってそして部屋の入り口で立ち止
まる。男も立ち上がり、少女に
「つかさ。その方を近くまで送って上げなさい」
「わかっているよ」
つかさと呼ばれた少女は元気良く立ち上がると、ぱたぱたと駆け出した。
「こっちですよ〜」
「あ、すみません。本当にお世話になりました」
男に頭を下げ、悟は少女を追っていった。男が悟に気遣い、つかさに案内
するように言ってくれたことがわかったのだ。
「街への近道だよね?」
走りながらつかさが聞いてくる。巫女装束のまま、悟に先行して走ってい
く。悟は重い荷物を背負ったまま、
「そう。近道あるの?」
「任せてよ!」
とつかさが胸をドンッと叩いた。
「守塚さんは誰と待ち合わせしているの?」
もしかして、恋人?とつかさが興味津々と言った様子で聞いてくる。
「違うよ。俺、親戚の人と待ち合わせしているんだよ」
「でも、女性でしょ?」
 つかさの一言に悟はどきっとした。まだ愛美の名前だが、性別すら
いっていないのに、彼女は知っていたのだ。
「な、なんでわかったの?」
「だって、守塚さんドラマに出てくるデートに遅れる男の人の顔だっ
 たから」
笑顔で伝えてくる。悪戯っぽいその笑みは、どこか憎めないものがあ
る。悟は鏡があったならば、穴が空くほど自分を見ただろう。
「そんなに俺、そういう顔していた?」
「うん。とっても」
少女が鳥居とは反対側に走っていく。悟はついていくしかない。
(ん?なんだろう・・・)
 ふいに、悟は変な既視感を覚えた。神社には来たことがあるが、そ
れでも普通に階段を上ってくる道しか知らないはずであった。そう、
知らないはずであった。だが、どこかで見た光景が脳裏をかすめてい
く。いつか、今みたいに誰かとこの道を走っていく光景。
(いったい、いつ、どこで・・・)
「守塚さん!早く早く!!」
つかさの声に悟は我に返った。ちらりと腕時計を見る。
「げっ!」
時計の針は5時半を示している。完全に遅刻だった。
 つかさは悟を時々見ながら、それでも足を止めることなく走ってい
く。悟は重い荷物を背負いながらもついていく。体力はとっくに限界
だった。
(愛美ちゃん怒っているだろうな・・・)
と、内心肩を落とす。怒られても言い訳できない。素直に怒られよう。
そう心に決める悟であった。
「ここ。この道を降りれば駅前に出られるよ」
 つかさが木々の間にある小道を指して言った。足を一度止め、悟が
追いつくのを待っている。
「ここが?」
木々の間は緩やかな階段が続いている。鳥居に向かっていた階段より
も段は緩やかであった。
「うん。ここ、業者の人が使うんだよ。境内への階段は急だからね」
よく見ると、階段の横には一本の線路があった。山仕事に行く人が資
材搬入に使う運搬車のもののようだった。
「ここ降りれば駅のすぐ手前までいけるよ」
とつかさは階段を下りていく。
「あ、待ってよ」
悟も慌ててそれに続いた。
「守塚さんはこの街初めて来たの?」
階段では走っていくことはさすがに危険なので、二人とも並ぶように
歩いて降りる。それでも早足にであるが。
「そういうわけじゃないな〜」
と苦笑しながら悟は答えた。観光としては確かに初めて来る。だが、
数年前は間違えなくこの街にいたのだ。どう言えばいいのかわからな
いというのが、本音である。
「俺、数年前は少しだけこの街にすんでいたんだ」
「へぇ〜そうなんだ」
「だから、初めてというわけじゃないんだよ」
「そっか。だからなんだね」
しきりにうんうんと頷いているつかさに、悟は不思議に思った。
 悟の顔に気づいたのか、つかさは曖昧な笑みを浮かべた。
「あ、変な意味じゃないからね。ただ、初めてこの街に来たのに、
 うちが一番天体観測に適しているということ、知っていたから」
「あ、なるほどね」
悟はようやく理解した。石碑の上で出会った時、確かにつかさは言っ
た。「君も知っているんだね」と。
「でも、守塚さん前に来たことあるなら、ボクと会っていたことある
 のかな?」
人差し指を顎に当て、懸命に何か考えている。
「う〜ん・・・どうだろう。俺にもわからないな」
 悟は苦笑する。この街にいた時はまだ幼かったし、何よりも知り合
いと言えば愛美だけだったのである。それに、どう見ても横にいる少
女は年下に見える。会っていたとしてもわからないだろう。
 やがて、階段が終わりにさしかかった。木々のトンネルがきれてい
るのだ。街のざわめきも耳に入ってくる。
「到着!」
と、最後の階段をジャンプしてつかさが降りる。つかさは振り返って
悟が来るのを待った。
「守塚さん遅いよ!」
「だ、だって・・・」
この背中の荷物の重さが・・・と言いたいところだが、それは言い訳
にしかならなかった。
「ここは・・・」
 そこは、駅前の広場に近い場所だった。折しも愛美と待ち合わせし
た場所が道路を隔てて前にある。祭りの囃子の音、蝉の声が五月蠅く
耳をつく。
「どう?近いでしょ?」
と胸を張ってつかさが言う。悟はそのつかさの姿を見て、つい笑みが
浮かんでしまった。
「な、何よ?」
つかさがむっとしながら悟に詰め寄ってくる。
「なんでもないよ」
悟は笑みを浮かべたまま首を振った。
 つかさは腑に落ちないと言った表情だが、やがて
「ねえ、守塚さん」
「何?」
「まだこの街にはいるんだよね?」
身長差もあることだが、下から悟の顔を覗くようにつかさが聞いてく
る。その顔には何かに期待している様子がうかがえる。
「うん?そうだね・・・とりあえず、やりたいことがあるから祭りの
 間はいるよ」
つかさの表情が輝いた。うんうんと頷きながら、
「じゃあさ、また来てくれるかな?ボク、夏休みだから家にいるから」
「そうなんだ」
「うん。神社にいるとお祖父ちゃんに手伝いをしろって言われていて、
 守塚さんが来てくれると・・・」
つかさの言葉の意味がわかった。悟は苦笑しながら
「逃げる理由になると?」
「そうそう・・・って」
つかさは顔を急に赤らめ、顔を俯かせてしまった。
「せめて、もう少し言い方があるんじゃないかな〜。ボクがまるで手伝
 いを嫌がっているようにしか聞こえないよ」
「ごめんごめん。いいよ」
「え?」
つかさが顔を上げる。悟は優しく微笑みながら、
「いいよ。また神社に寄ればいいんだよね?」
いつもというわけにはいかないけどね。と付け加えた上で、悟は答えた。
「うん。ボク、待っているからね」
「え?」
つかさの言葉に、悟は表情を凍らせた。
「どうしたの?」
つかさが悟の表情に気づき、心配そうに見ている。
「ん?いや・・・」
なんでもないよ。と悟は微笑んだ。
『待っているから』
どこかで聞いたような言葉だった。
 なんだろう。まただ。また何かがひっかかる。悟は考えてしまった。
何かが心にひっかかるのだ。この街に来てから、どうも何かを考えてし
まう。既視感が多い。
(なんだろう。俺、疲れているのかな?)
「あの、悟さん?」
(どこかで聞いたような・・・・)
「悟さん?」
肩を揺すら、ようやく悟は顔を上げた。そこには、愛美が立っていた。
「悟さんどうしたのですか?」
「あれ?」
辺りを見てみるが、つかさの姿がなかった。
「どうしたのですか?」
「め、愛美ちゃん?」
「はい?」
 目の前には涼宮愛美がいる。心配そうに悟を見つめている。
「悟さん。どうしたのですか?」
愛美の声は本当に心配をしていたものだった。悟は夢でも見ていた気持
ちだった。立った今まで表情のよく変わる少女と会話をしていたはずだ。
それが、いつの間にか彼一人が立っている状態だったのだ。
「約束の時間になってもいらっしゃらないので、心配してました。悟さ
 ん私との約束を破ったこと無いから・・・」
「ご、ごめん。愛美ちゃん」
悟は頭を下げた。愛美はいきなりのことで少し驚いたようだったが、
「いえ、実は私も少し時間に遅れてしまったのです」
買い物が長引いてしまったのだと彼女は言う。
 悟は頭をあげると、再び周りを見てみた。駅前のざわめきは変わらな
い。目の前には愛美がいる。行き交う人達は特に変わったことなど無い
ように二人の周りを過ぎていく。
「悟さんが怒っていないかとちょっと考えていました」
「いや、俺もちょっと時間に遅れてしまって・・・俺こそ愛美ちゃんが
 怒ってないか心配していたんだよ」
悟の言葉に愛美の瞳が細められる。二人とも自然と笑みが浮かんでくる。
「悟さんも遅れたのですか。じゃあ、おあいこですね」
悪戯っぽく舌をちょっと出して愛美が微笑んだ。悟もつられるように微
笑んだ。
「悟さん」
「はい?」
 ふいに愛美がいつもの穏やかな笑みで悟に声をかけた。
「落ち着かないようですけど、何かあったのですか?」
「う〜ん・・・ちょっとね」
悟は言葉を濁した。愛美の視線から逃れるように後ろに目をやる。
「え?」
「悟さん?」
「ない!」
 先程つかさと降りてきた道がないのだ。後ろにはただ、木々が辺り狭
しと立ち並んでいる。
「落とし物でもされたのですか?」
「違うんだ」
「どうなされたのですか?」
「愛美ちゃん」
「はい」
「俺がここにいたとき、俺の横に誰かいなかった?」
「え?」
「だから、俺を見つけたときに俺の横に誰かの姿を見なかった?」
 悟の言葉に愛美は困惑した表情を浮かべた。ゆっくりと首を横に振り
ながら、愛美は答えた。
「いえ。私が悟さんを見かけたときは、悟さんがお一人でいましたけど」
 愛美の言葉に悟は驚愕した。愛美が見たときには一人だった。その言
葉が悟を驚かせていた。
「どうかしたのですか?」
「う、ううん・・・」
 俺が今まで一緒にいた少女はなんだったのだろう。そして、あの時間
でさえ何だったのだろう。そう考え込む。確かに俺はあの娘と出会った。
そして、神社の宮司さんにも会った。お茶ももらった。
 夢でも見ているような思いだった。まるで幻でも見ているようだった。
「あの。悟さん?」
「ん?ああ・・・ごめん」
「悟さん。そろそろ家に行きませんか?日も暮れてきてますし」
愛美の気遣いが痛いほどわかった。悟は頷いた。
「うん。行こうか・・・」
 愛美はいつもそうだった。そう悟は思った。悟が語るまで理由を聞か
ない。自分から聞こうとしなかった。本当に困ってうち明けたときだけ、
愛美は真摯に聞いてくれて、力になってくれた。
(ごめん。愛美ちゃん)
整理がついたら聞いてみようと悟は思った。今日は不思議なことだった。
 ちらりと鳥居がある方向を振り向いてみる。鳥居の朱が夕日に照らさ
れて、赤く燃えていた。神社はそこにあるのだ。じゃあ、あの娘は一体?
悟は色々と考えることになりそうだった。

〜続く〜


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