〜ジャッジ・クリムゾン〜
優しい死神

The 3rd


(8)〜闇に紛れて〜
 天都美姫は憤りを感じていた。彼女は、尾行していた男が刹那である
と半ば確信していた。刹那でないならば、こちらを巻くことはない。偶
然を装っているが、明らかに自分を巻いている。そのことに大きな謎と
自分が巻かれたことに対する怒りが混ざり、彼女は怒っていた。
「もう、なんなのよ!?暮内先生なら、逃げることないのに」
 むしろ、刹那であったらこそ逃げたのだ。そのことに彼女はまだ気づ
いていない。それでも、刹那を探すことを彼女はやめなかった。なぜか
と訊かれれば、なんとなくと答えただろう。実際、彼女自身なぜ追って
いるのかその意味ですらまだ理解していなかった。
「絶対に明日学校で問いつめてやるんだから!?」
そういきり立っても、彼女の足は気持ちと裏腹に刹那を求めて歩いてい
た。巻かれていても、だいたい今までの行動から刹那がどの細道に入っ
たか予想して、自らも行ってみる。念のため、鞄から護身用に持ってい
る伸縮式の警棒を取り出しておく。
 都心の夜は眠らない。若い女性の一人歩きがいかに危険かを、美姫は
知っているつもりだ。けれども、今はなぜか自分を巻いた男の事が気に
なって仕方がない。何が自分をこのように駆り立てていくのか、それす
ら今の彼女には理解できぬものだったのだ。
 一方、美姫を巻いた刹那は繁華街へとその足を延ばしていた。情報屋
のリークでは、多岐川はこの繁華街の奥にある飲み屋を行きつけにして
いるらしい。特に最近は毎晩のように入り浸り、それも決まった時間に
現れ、そして去っていくというものだった。
「ん?」
刹那は足を止めた。体のどこかが異常を訴えている。そう、何かにじっ
と見つめられているような・・・どこか体がピリピリとして、引きつる
のだ。それは、何かで狙われている状態─────刹那の経験上では、
『戦場』が思いついた。殺戮の世界へとつながるあの戦場に似た異常。
(どこにいる?)
 刹那は自分の直感を信じて疑わない。これまでその直感を信じて生き
てこれたのだ。今、どこかで誰かが誰かを狙っている。獲物を捜すとき
に発する鋭い殺意。それが一瞬だが自分を刺したのだ。まるで、心臓を
鷲掴みされたような感覚。そのイヤな感覚を感じている。
(どこだ!?どこにいる?標的は・・・誰だ?)
さり気なさを装って左右、前後を見る。しかし、近くには殺気を感じな
かった。一瞬だけのことである。思い過ごしかもしれない────と、
敏感な一般人はそう思うであろう。だが、この場にいる男はプロである。
それも戦場を生活の場とし、剣林弾雨の中を日常としてきた男。例え一
瞬の殺気であっても、それが本当なのか、そうでないのかくらいは瞬時
に判断できる。
 直感的に刹那は殺意の出所を探し出していた。今いる場所から北の方
角。そこからだ。周りを見渡しても、ビルの巨体が立ちはだかっていた。
しかし、北だけは違った。大きな通りを挟んでいるせいか、見通しのよ
い場所である。かつ、ビルの明かりが重なり合い闇夜に潜むには絶好の
ポイントだ。
(今のところ、俺が狙われているわけではない・・・か)
北側に警戒をしながら、刹那は足を再び運びだした。

 男は一瞬、鋭い殺気を感じてスコープから目を離した。
「!?」
一瞬。たかが一瞬である。それでも男は汗をかいていた。うっすらと中
に着ているシャツが汗ばんでいる。男は慎重に額の汗を拭い、再びスコ
ープの中を覗いた。
(どこだ!?どこにいる?)
臥せ撃ちのポジションで、いつでも撃てるように引き金に指をかける。
男は殺気を感じた一瞬に驚愕し、そしてすぐに笑みを浮かべた。
(おもしろい。退屈な仕事には飽き飽きしていたんだ。どこにいる。俺
 が戦うに値する男よ)
しかし、それ以降殺気を感じることもない。男はしばらくはスコープを
のぞき込んでいたが、やがて離れた。
 立ち上がって懐からタバコを取り出し、火をつける。ビルの明かりを
利用して時計を見ると、まだまだ時間には早かった。先ほどの一瞬を思
い出す。思い出すだけで鳥肌がたつ。
 男はどう猛な笑みを浮かべた。久方ぶりに感じる感触。『戦場』とい
う場でしか感じられない独特の空気。
「ふふふ・・・まだ捨てたもんじゃないな。俺をここまで楽しませてく
 れる奴がまだいるなんて」
男はニヤリとどう猛な笑みを浮かべたまま、これから始まるであろうシ
ョウタイムのことを考え始めた。
 闇の中を歩き続ける。刹那はひたすら目的の店に向かって歩いていた。
さきほどの殺気を感じたことで少し時間に遅れがちになっている。
『刹那。刹那聞こえて?』
ピアスに偽装した通信機から、振動を通して茉莉の声が聞こえる。
「ああ。なんだ?」
刹那は声に出さぬように答えた。一種の腹話術のようだ、と刹那は思う。
彼等の保持する通信機は、高性能であり声帯による振動を利用し、その
まま電話並にクリアーな通信を可能にしている。
『先に張り込んでいる情報屋から連絡があったわ。多岐川もそっちに向
 かっているらしいわ。できればあなたが待ちかまえていて』
「わかった。俺も尾行を巻いていて少し遅れているんだ。なんとかなら
 ないか?」
尾行というくだりで、茉莉がはっとしたようだ。
『どういうこと?』
「ああ〜高校の生徒に見つかったんだ」
茉莉の声が自然と低くなる。超低温の冷気のような声。
『あなただと感づかれたの?』
「いや、その前に巻いた。まだつけているようだが、その前にケリをつ
 けてそっちに帰るさ。退路の変更を頼む」
『いいわ。任せて』
茉莉からの通信はそれきり途絶えた。美姫が自分を捜していると言うこ
とは、帰り道を変える必要がある。見つかってはならない。気づかせて
はならないのだ。それが、彼等がこの国に来る前から貫いてきた姿勢で
ある。姿無き悪夢。それが彼等の存在であった。
 姿を見たものは、如何なる者でも消さなくてはならない。殺戮の夢魔
は神出鬼没、誰にもその存在を知られてはならないのだ。
 刹那はサングラスをなおした。急ぎ足でその場を離れ、一路目的の店
に向かう。しかし、刹那にはさきほどの殺気が気になって仕方なかった。
茉莉に報告するかとも思ったが、こちらに関係がない可能性もある。
 下手に行動し、こちらの作戦が駄目になれば全てが水泡に帰すのだ。
刹那は思考を集中させた。今はそう、目の前の仕事に集中しよう。美姫
のことも気になっているが、仕事が終わり普段着に着替えてから何気な
く会っても良い。そうとも考えた。

(9)〜遭遇〜
 繁華街の一番奥。様々なビルが乱立するその一角に、そのパブはあっ
た。店の名前は「真珠楼」中国系の店である。表向きは高級パブである
が、店の裏の顔は闇賭博、つまりはカジノを持っている。そこでは闇に
紛れて様々な売買が行われている。麻薬や武器は無論のこと、各国の官
僚の弱みや軍の動きかたまで、様々な情報がやりとりされている。挙げ
句の果てには、人の売買まで行われているのだ。
 多岐川はその店の常連であり、また裏世界ではそこそこ名の知れた男
であった。警察の捜査も巧みにかわして麻薬や武器を売買している。多
岐川が周りから一目おかれている最大の理由は、なんといってもどの組
織にも属していない、ということにあった。仕事となれば、どのような
相手でもそれ相応の対応を持って商談を成立させる。例え、敵対してい
る二つの組織を同時に会わせる場合であっても、彼の前では組織そのも
のが大人しくならざるを得ない。つまり、多岐川は組織から恐れている
のだ。多岐川なしでは組織の商売もできない。それが裏世界では暗黙の
了解とされているほどだ。
 彼の容貌は、どこにでもいるような中年だった。人の良さそうな顔つ
きで常に微笑みを絶やさない。一見すると、神父などがあいそうな男で
あるが、実際には笑顔で殺人をしてのけるような残忍な一面も持ち合わ
せている。
 前掛けに割烹着などを着せれば、どこぞの店の人とも思うであろう。
つまり、多岐川という男はどうしてもそのテの男には見えないのだ。彼
の本当の顔を知っているならば、うかつに顔を合わせないのが当たり前
なのだが・・・・・
 その多岐川は真珠楼に向かっていた。通りすがりの人が慌てて道をあ
ける。多岐川の今の顔を見れば、誰でも道をあけるであろう。鬼のよう
な形相で、睨み付けるように彼は歩いていた。
「・・・ちっ。何がもう手を切るだ!?」
独り毒つき、彼は道を歩いている。そう、彼は不機嫌であった。この店
に来ようとした矢先、商売相手から一方的に「もう君との商売はおしま
いだ」との連絡を受けたのだ。
「誰のおかげで今まで私腹を肥やして来れたのか、奴らはわかってねぇ」
よほど煮えくり返っているようだ。ゴミ箱を蹴飛ばし、道行く人を睨み
付け夜の繁華街へと入っていく。
 酒が欲しかった。それも浴びるほど。やけ酒になるのはわかっている。
だが、飲まずにはいられない。それが今の多岐川の気持ちだった。行き
つけの「真珠楼」まではあと少し。多岐川は店に向かうことを第一とし
ていた。
 その多岐川のすぐ後ろを黒ずくめの男がつけていた。刹那である。
「俺だ・・・多岐川を見つけた。これより作戦に移る」
端的にピアスに偽装した通信機に話しかけ、サングラスを中指で押し直
してさりげなく多岐川のあとを追い始めた。
 多岐川の視界には刹那は入っていない。多岐川が怒りに身を任せてい
ることが刹那に味方した。刹那は普通に歩いているだけだが、多岐川が
気づくことはなかった。無論、多少の距離はとっているがそれでも刹那
は尾行と言うほど緊張していなかった。
「・・・運が俺に味方しているのか」
と呟く。刹那は多岐川のすぐ後ろまで距離を詰めてみる。だが、多岐川
が気づくことはない。自分の考えが持つ独特の世界に入り込んでいるよ
うだ。
 歩くこと約15分。多岐川は「真珠楼」に到着した。刹那は指弾で小
さな盗聴器を多岐川に仕込んでいる。そう、さきほどすぐ後ろまで接近
したときに付けたのだ。
「これはこれは多岐川様。お待ちしておりました」
と恰幅の良い店長が多岐川を出迎える。多岐川は少し機嫌を直したよう
で、軽く手を挙げ
「おう、邪魔するぜ」
と店の中へと入っていった。刹那はしばらく店の裏手で、中の様子を盗
聴器越しに聞いていた。

 多岐川は店員に案内されるままに、VIP席に案内された。そのまま
自分のボトルを持ってこさせ、一気に酒をあおった。灼けるような熱さ
が胸を包む。それが気持ちよかった。
「ふぅ〜・・・やっぱこいつを飲まねぇとな」
とようやく一息ついたのか、多岐川は怒りを静めた。
 刹那の耳には、何人かのホステスを呼ぶ多岐川の声が聞こえる。しか
し、刹那が聞きたいのはホステスの名前でもなければ、酒の種類でもな
い。闇賭博への合い言葉が必要なのだ。多岐川はそこで今回の事件に関
することを話すはずだ。と茉莉が刹那に言って聞かせている。
 会員制をとっている闇賭博は、誰かのコネを必要としている。そのた
め合い言葉を知るものだけが入れるというのだ。
(くそ、俺も今日は飲みたいんだ・・・)
慣れぬ教職につき、茉莉や狗狼にスーツ姿を笑われている。さっさと酒
でも飲んで寝たいのだ。
(いけね。明日は小テストを行うんだった。まだ問題作ってねぇぞ)
ついつい学校でのことを思い出し、刹那は顔をしかめた。
 なんだかんだと言っても、律儀な刹那はしっかりと教師のふりをして
いるのだ。授業をこなし、生徒の成績を付け、次の授業のことを考えて
いる。茉莉や狗狼が聞いたならば、また大笑いをしているだろう。
 ついつい集中力を欠いてしまった刹那の耳に、彼を現実に戻す会話が
かわされ始めたのだ。
「多岐川様。本日はいかがなさいますか?」
声からすると、店長のようだ。多岐川は横柄に
「おう、今日も殻に入らせてもらうぜ」
と答えた。何かが動く物音。刹那はその音にハッとし、耳を澄ませた。
 足音だけが刹那の耳に入る。他の客のざわめきが消えた。どうやら、
店の奥まで来たらしい。
 コンコン・・・
ノックをする音。やがて、くぐもった声で
『なんの貝をお探しか?』
と問いかけてきた。多岐川はゆっくりとだが、はっきりとした声で
「ミロのビーナスが中に入っている貝だ」
鈍い金属音が聞こえる。どうやらドアが開いたようだ。そして、またし
ばらくは足音だけになり──────唐突に騒がしくなった。
 喧噪。ただその言葉ですら陳腐に覚える。それほどの人々の話声。刹
那の耳がキンキンとうなる。あまりの喧噪に、刹那は盗聴器のマイクレ
ベルを下げた。多岐川自身の声は聞こえるが、その他についてはあまり
聞こえなくなる。
(ふぅ〜・・・鼓膜が破れるかと思った・・・)
 多岐川が姿を見せると、ホールは一瞬だけ静寂になりそして再び、い
や先程以上の喧噪が多岐川を迎える。
「多岐川の旦那。旦那のおかげで商売が上手くいきましたよ」
多少なまりのある日本語で、誰かが多岐川に声をかけた。男の声は、低
くもなく高くもない。男性であるが、それでも変声期を迎えた男子より
は数オクターブ高い声だ。
「ふん。次はブツをしっかりさばいて、俺にも回せよ」
多岐川が、半ば上機嫌な声でその男に言葉を返す。男は、幾度か「わか
ってますよ。旦那に助けられたもんだ。旦那の望むものは、例えなんで
あれ手に入れて見せますよ」と返し、その場を辞した。
 次から次へと多岐川は声をかけられる。多岐川自身がその場から動い
ているのか、人が多岐川に寄っていっているのかはわからなかった。
(思ったよりも多岐川の商売は幅広いな・・・)
 刹那は脳裏に会話からいくつかの事柄を焼き付けて多岐川の話を聞い
ていた。そこで、多岐川が実際には刹那達が考えているよりも危険で、
顔の利く男だと初めて知った。
 下はやくざから、上は香港マフィア、さらには欧州のファミリーまで
多岐川の商売相手だった。取引は麻薬を始め、武器や兵器。あげくには
人身売買まで行われているようだった。
(こいつは・・・個人でここまで来るヤツは本当の大物だ)
 嘆息をつきながら刹那はそう記憶にとどめた。個人だけの力でここま
でのし上がれる者は希な存在である。何かにしろ、どこかの勢力圏で稼
いでのし上がっていった者がほとんどである。
 だが、多岐川は違う。全てを自分一人で決め、成功を収めている。こ
のような男は自分の美学を持ち、またある意味で尊敬を持てる男である。
(あんたの商才には感服だよ)
心からそう思った。そして、同時に刹那の暗殺リストに彼の名前が加わ
った。裏でやる商売としては、確かに多岐川はすごい才能を秘めている。
だが、やっていることは外道そのものなのだ。
(さて・・・問題の話が出てくるのか?)
 刹那は麻薬や武器の売買の話を聞きたいのではない。依頼主からあっ
た情報。即ち、美姫の親友が消えていくというその摩訶不思議な状況に
関する情報が欲しいのだ。
 ひたすらに情報が出ることを待つ刹那の耳に、ついに待ち望んでいた
言葉が耳に入ってきた。
「多岐川の旦那」
先程の男よりも更に高い声の男が多岐川に声をかけたのだ。
「あん?手前は・・・」
「旦那。あたしの名前は出さないでくださいよ」
 刹那は内心で舌打ちした。重要な人物の名前が聞けないのだ。しかし、
と刹那は思う。どこかで聞いた声のような気がしてならない。
「旦那のおかげで、あたしの趣味が楽しくなりました」
「ほほう・・・女子高生を拉致することか?」
(・・・来た!)
 刹那は録音用のMDのスイッチを入れた。
「ええ・・・最近の高校生は発育が良く、あたしは毎日が幸せです」
多岐川はあまりこの男とは話をしたくないようだ。言葉に感情がこもっ
てないことがとれる。
「ま、あんまり趣味がいきすぎてお縄になるなよ。俺がやばくなる」
「旦那。旦那」
 男が多岐川の言葉を止める。多岐川は鼻を鳴らしただけで、気にはと
めていないようだ。
「ご要望ともあれば、旦那にも差し上げますよ」
「ほぅ・・・」
この話には興味が出たらしい。相手の男の声が弾む。多岐川の機嫌をと
り、取り込んでいけば新たな商売の道が開ける。刹那にはそれが読めた。
「次は、とびきりの美女をやろうかと・・・」
「へぇ〜・・・楽しめそうかい?」
「ええ〜もちろん」
「その名前はわかるのか?」
男が間をおいた。刹那の脳裏には、なぜか美姫の顔が浮かんでしまった。
(まさか・・・)
 現実は無情にも、刹那に味方しなかった。
「天都美姫っていいます。これが写真でさあ」
多岐川が口笛を吹く。刹那は愕然とした。なぜか当たってしまったのだ。
「いいねぇ〜・・おい!本当なんだろうな?」
「へぇ〜い。それはもちろん。ですがね、旦那」
男は念を押すように多岐川に言い寄った。
「あたしが旦那に献上した暁には・・・」
「あ〜わかっているよ。わかっている。お前さんを俺の仲間にいれてや
 るよ。前からそう言っていたよな?」
「はい」
話はそれきりだった。多岐川は別の顧客のところで移動したのだ。

(10)〜夜と闇と〜
 刹那は壁により掛かったまま、しばらく動けなかった。汗が滝のよう
に流れ落ちる。昔もこのような感情を味わったことがある。だが、その
感情の名前が思い出せない。
 頭のどこか冷静なところがそう伝えるが、生憎と刹那の心は別のとこ
ろにあり、冷静に物事を考えられなかった。
『刹那!』
 突然、無線機から茉莉の声が響いた。刹那は体を震わせ、何が起きた
のか理解できなかった。
『刹那!聞こえる!?』
「あ、ああ」
ようやくそれだけの言葉を口にできた。
 体が鉛のように動かない。いつかも味わったはずの感情。それが刹那
を支配し、思考を中断させていた。
『刹那。本当に大丈夫?』
「ああ・・・何かあったのか?」
 刹那の声は自分で思っている以上に震えていた。
『何度も呼びかけているのに返事がないから心配していたのよ』
どうしたのよ?あなたらしくもない。と、真理は続けている。
「・・・いや・・・何でもない。問題はない」
『それで、情報は何か掴めた?』
茉莉の声が冷静だったのが救いだった。刹那は次第に平常心を取り戻し
ていった。
(そうだ。今は任務中だ。私情は捨てなければ)
「ああ。重要な情報はMDに納めた。そして、多岐川には【赤の洗礼】
 を与えなければならないことも判明した」
茉莉が無線の向こうで絶句したのがわかった。数秒の間をおいて、茉莉
が再び言葉を出す。
『そんなにやばいの?ヤツは?』
「ああ・・・アメリカにもヤツのような外道はいなかった」
『今は駄目よ。刹那。あなたの気持ちはわかるわ。でも、ヤツにはまだ
 生きていてもらわねばならないの・・・できれば確保して』
「・・・了解」
 茉莉の意図はすぐにわかった。多岐川を確保し、口を割らせればいく
つかのことがわかるのだ。今追っている事件のこと。そして、闇市場の
数々。それらは徹底的につぶさなければならない。それが、【クリムゾ
ン】の定め。仕事なのだ。
 自分たちがやっていることが正義でないことは理解している。何をし
ても人殺しは人殺し。決して威張れるものではない。だが、それで被害
を受けた者以上の者達が救われるのならば、それは望むことなのだ。
 今はまだ被害を受けない。また、まだ狙われない者達に平和と安息を
与えるために彼等は日々、その身を汚しているのだ。決して償いきれぬ
重い血の十字架のために。
 しかし、さきほどの会話が気になって仕方ない。数年間忘れていたモ
ノ。美姫が狙われていると知ったときに心にわいた衝動。そのことを考
えるだけで、胸が締め付けられそうになる。
(今日の俺はどうかしてる・・・なんでだ?なぜなんだ?任務に集中で
 きない・・・)
 壁により掛かり、頭を振る。しかし、それでも心の中にふってわいた
衝動が消えることはない。忘れていた感情。実際には忘れていたと思い
こんでいた記憶・・・
(紅葉・・・?)
 胸のペンダントがきらめいた気がした。ペンダントのロケットを開く
と、数年前の刹那と紅葉の写真があった。二人とも幸せそうに微笑んで
いる。一番愛おしい日々。
 過去を変えることはできない。過去の痛みを引きずりながら、彼は今
日も生きてきた。今を精一杯生きることで、過去を忘れようとしていた。
それが、それがたった今交わされた会話で思い出してしまった。
 刹那にとっても、茉莉、狗狼にしても忘れたくても忘れられないはず
の悪夢としか言いようのないあの日を。
「紅葉・・・俺は・・・俺はどうしたらいいんだよ・・・」
 写真の中ではいつも微笑みを絶やさない少女に対して、刹那は俯き聞
いた。地面に数滴の滴がついていた。熱いモノが頬を濡らす。
「頼む・・・教えてくれ。俺を救ってくれよ!!」
 その場に佇む刹那には、暗殺者の顔ではなかった。写真の中と同じ、
少年の顔をしていた。
 夜の闇が彼を包み込む。彼の心と同じように。刹那はペンダントをし
まうと、拳を力の限り握った。痛みが彼を現実に引き戻す。
「今は・・・やるしかないんだ・・・俺は。俺はあの惨劇を繰り替えさ
 せはしない!絶対に!」
 刹那は迷いある心から、霧を払うかのように頭を思いっきりふった。
髪が乱れる。だが気にもしない。
「俺は殺し屋なんだ。俺は・・・クリムゾン・・・全てを紅に帰す者」
 コートのポケットから革手袋を取り出す。コートに合わせたような漆
黒の手袋は、よく彼の手に馴染んでいる。サングラスをかけ直し、彼は
物陰に潜み、獲物を待ち始めた。それは、獲物を前にした猛禽類のよう
であった・・・死神は闇の中でひたすらに待ち続ける。

 タバコを吹かす。それは彼にとっては単なる時間つぶしだった。昔ほ
どうまいとは感じることはない。それは、仕事そのものに魅力を感じな
くなってからだった。
 長年を供にしてきた相棒は、いつでも彼の合図を待っている。彼の指
一つが触れれば、それは仕事を果たしてくれる。男は、大きく煙を吐き
出すと、時計を確認した。
 黒のロングコートから見える時計は、友人からの贈り物だった。かつ
ての同僚であり、仲間であり、彼にとっては弟のような存在だった。人
付き合いが苦手な彼も、なぜかその友人の前では心を開いて全てを語れ
る。そんな存在だった。
 数年前、その友人と生き別れになり、その他にもいたはずの仲間も行
方が知れない。探そうにも、個人の能力では限界がありすぎた。だが、
それでも彼は、何名かの友人の生存を信じていた。
「・・・昔のことを思い出すなんて・・・柄じゃねえや」
自嘲気味に笑うと、彼は気を取り直して時計を見る。時計の針は23時
を回ったところだった。
「・・・そろそろだな」
男はそう呟くと、最後にタバコを吹かして火を消す。
 闇は友人だった。夜と闇は慣れ親しんだ環境だ。その中を彼は生きて
きた。闇の中程心が安らぐときはない。彼が使っている部屋よりも、趣
味をしているときよりも、何よりも闇の中が一番落ち着く。
「結局、俺はそういう世界でしか生きることができん」
 誰ともなく呟く。足下のタバコを踏みつけて、彼は相棒の待つ場へと
足を伸ばした。一番の付き合いが長い相棒。それは、一瞬で標的をこの
世から消し去ることができる頼もしい存在だ。
「・・・所詮、俺は人殺しなんだよな」
 男はスコープをのぞき込んだ。スコープの中には、ある店の看板が映
っている。店の名前は「真珠楼」といった。


続く


To Be Continued !!

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