〜ジャッジ・クリムゾン〜
優しい死神

The 4th


ジャッジ・クリムゾン
〜優しい死神〜


(11)〜闇に抱かれて〜
 刹那は待ち続けた。黒いロングコートにサングラス。闇に紛れている
ようなその出で立ちは、賑やかな繁華街とは似ても似つかわしくないも
のだった。
 実際、彼は闇に紛れている。闇に紛れてこそ、彼の本業は成り立つ。
目立つような格好では、彼の仕事はできない。全てを飲みこみ、無に帰
したような黒。それが闇。だが、その闇も彼が昔ほど濃いとは思えない。
昔の闇は今の薄い闇とは違う。粘性を帯びたような、まとわりつくよう
な闇だった。
 いつからだろう。こんなに闇を薄く感じるのは。そう刹那は思う時が
ある。少なくとも、アメリカにいた時は感じなかった。アメリカにいた
時は、毎日が充実していた。一日一日がそれこそ、瞬間的に過ぎていく
ようだった。帰るべき所があった。守るべきものがあった。そして、振
り返ればいつも仲間がいた。
 別に、茉莉や狗狼を非難しているわけではない。むしろ、感謝してい
る。彼等がいなければ、刹那は日本に来ようとはしなかった。来るべき
その価値すら見いだせぬまま、彼はどこかを彷徨い歩いていただろう。
 人は過去に戻ることはできない。日々、歩き続けている。人生という
名の道を。時折、振り返って過ぎ去りし過去を懐かしむことだけを許さ
れている。それが人間なのだ。
(あれから数年。俺はもう後戻りができない)
 刹那が背負った罪科。それは血塗られた道を歩くことにある。それま
では仕事とは言え、人を殺すのをためらわなかった。彼等の持つ正義に
基づいて、彼は多くの人を殺めてきた。
 生きていてはいけない人間。その人間達を虚無に還してきた。しかし
あの悪夢のような事件が起こった時、彼はある意味で自分自身を殺した
と言えることをしたのだ。
『刹那聞こえて?』
高性能無線機から茉莉の声が聞こえる。刹那は身動きせずに答える。
「刹那だ」
『退路が確保できたわ。目標の身柄を確保後、ポイントSから戻るのよ』
「了解」
『通信はこれで最後よ。この世に永久なる緑を』
 【永久なる緑】。それは彼等がいつも仲間に伝えてきたセリフ。誰も
餓えることの無い、誰も悲しむことが無い幸福を目指して。それが彼等
【エバー・グリーン】の決まり文句だった。
 退路が確保できたと言うことは、美姫の居場所が判明したのだろう。
これで、出会うこともない。刹那は安堵のため息をついた。

 通信機を置いた茉莉は部屋から出ていく。狗狼は自室で情報操作をし
ているだろう。彼女は私室という名目で使っている部屋から出て、廊下
を歩きふと立ち止まった。そこは、刹那の私室だった。
 本人の許可無しに入るのは彼女の行いに反することだが、何気なくド
アノブをひいてみる。真っ暗な闇がそこにはあった。ただ、月明かりだ
けが窓から優しく差し込んでいる。
 茉莉は入ってはいけないという自分の気持ちとは裏腹に月明かりが指
し示すその先へと歩み寄った。そこは、刹那のデスクがあった。乱雑に
積み重ねられた参考書の数々が目に入る。それは、彼が身分詐称のため
に使わねばならない参考書の数々。そして、その乱雑の中でも整理され
ている場所が目に入る。
 デスクは散らかっている。だが一画だけ整理され、月明かりをうけて
目に入る。彼がどれだけ大切にしていたのか、誰の目からみても明らか
なほど丁重にカバーがかけられ、保管されている束。それは、ノートだ
った。触れる気はなかったのだが、手にとって見る。
【Diary1990〜】とラベルがついている。
(見てはいけない。絶対に見てはいけないものよ。これは)
 茉莉は見なかったことにしようとし、日記をデスクに戻そうとした。
だが、心とは裏腹に手は日記帳をめくっていた。日記には、刹那の文字
で彼の心情を物語っていた。
 そしてページをめくっていくと、1ページおきに著者が代わっている
ことに気づく。刹那の字はどちらかというと雑であった。だが、もう一
人の文字は、しっかりとしていて綺麗だった。
 日記の最初の部分は英語で書いてあったが、著者が一日おきに代わる
ようになってからは、日本語で書いてあった。
 茉莉には刹那と誰の日記なのかがはっきりとわかった。これ以上は見
てはいけないと思いつつ、目はしっかりと綴られた文字を見つめていた。
そして、あるページから1ページおきに刹那の文字しか目に入らなくな
る。ページを戻して、日付を確認する。
「!?」
 交換日記の最後の日付。それは、彼等がアメリカをでなくてはならな
い理由を作ってしまった悪夢の当日であった。再び、ページをめくると、
日記は刹那だけが書く様になっている。真理は窓を見、そして日記にそ
の視線を戻す。
「・・・刹那・・・ごめんなさい」
 読み続けていくうちに、涙がこみ上げてきた。茉莉も狗狼も、刹那の
ためを思って日本にやってきた。それが懺悔へとその瞬間変わったのだ。
 刹那の日記には、彼の苦悩が書かれていた。後悔。懺悔。そして、自
分に「死」を求めている彼の葛藤。
 日記を取り落としそうになる。茉莉は日記を落とさぬように持ち直し、
彼の綴った心の痛みをその目に焼き付けた。彼の気持ちも理解せぬまま
に、彼女は彼に苦しみを与え続けてきたに過ぎないと悟った。
 刹那の日記は、それほどまでに茉莉に衝撃を与えたのだ。ふと、振り
返ると、ドアの横に狗狼が立っていた。
「・・・茉莉」
 茉莉は日記を元の場所に戻すと、溢れ出た涙を拭おうともせずに
「私達はもう、償いきれない罪科を彼に与えてしまっているわ・・・」
「・・・見てしまったのか」
狗狼の表情も、言葉も苦しげだった。
 開いている窓から風が入り、日記をめくった。そこには、刹那の字で
こう綴られていた。
〜1997 7・7〜
 今日は君の誕生日のはずだった。だが、俺には祝う資格すらない。俺
 はその資格を。君に会う資格すら自らの手で失った。俺はもう君には
 会うことができない。俺の手は償いきれないほど、罪科にまみれてい
 る。今も自分を呪う。後悔や懺悔という言葉すらぬるいほどに。
 俺はもうこの世にいる場所すらない。死しても償いきれないこの罪科
 を俺はどうやってつぐなっていけばいい?
 死でつぐなえるならば、俺は今すぐにでもこの手で自らを裁きたい。
 今もはっきりと覚えている手の感触。毎日のように夢を見る。あの悪
 夢を作り出したのが、他ならぬ俺自身であることを君は許してくれる
 だろうか?
 全てを飲み込み、破壊する真っ赤な炎を夢に見る。そして、血塗られ
 た俺自身の手。俺は全てを知っていて、災禍をうんでしまった。もは
 や君になんと謝ればいいのかもわからない。だから、俺は自分を呪う。
 君に会えないという事実だけが俺を打ちのめす。
 叶わぬ事だが、もしも君に再び会えるならば、俺はその時君に裁いて
 もらいたい。災禍をうんだ元凶。君に裁かれるのならば、俺は当然と
 してそれをうける。俺はもうどうしていいのかわからないんだ。
 俺は、もう生きていてはいけない人間なんだ。

 茉莉は涙を隠せぬままに狗狼に寄り添った。狗狼は無言で茉莉の肩に
手を置く。狗狼は知っていたに違いない。茉莉だけが知らないことだっ
たのだ。刹那の気持ちを知らないとはいえ、彼を更に苦しめていたのは
他ならぬ自分だった。それが彼女に激しい悲しみと後悔を与えていた。
「私、どうしたらいいのよ?彼にどうやって接していけばいいの?」
「今まで通りでいいんだ。刹那は別に君を責めているわけではない」
「でも、私は結果として彼を苦しめている。この国に刹那を連れてくる
 べきじゃ・・・なかったのよ。この国にいること。それ自体が間違っ
 ていた・・・」
「だが、もう戻れないんだ。ワシたちが現にこうしている以上は」
 狗狼は視線をあげて刹那の日記を見つめる。茉莉もつられるように日
記に目を向ける。
「結局、あれから逃げ出しているのはワシ等なのかも知れないな」
「彼を・・・刹那を救うことと自分に言い訳している」
 狗狼は深くため息をつく。そして、
「本当に裁かれなくてはならぬは、ワシ等なのかもしれないな」
「ええ」
 優しく部屋を照らし出す月明かり。普段は神秘的なその光でさえも、
今の二人には非道く場違いなものに思えている。


(12)〜闇と光と〜
 闇が深くなる。時間と供に闇は深くなり、月明かりでさえ届かないビ
ルの狭間。そこに刹那はいる。深く大きく深呼吸する。自然と気持ちが
落ち着く。闇が深くなり心が落ち着くと彼は、ようやく実感し始める。
 こここそが。この闇の中こそ血塗られた自分にふさわしい。いつ死ん
でも構わない。闇の中に骸をさらす。それこそが自分の最後だと考えて
もいる。日の当たる眩しいところは似合わない。闇の中にさらされ、誰
にも気づかれることなく朽ち果てていく己の身。それが闇を生きてきた
彼には当然のように思えて仕方がない。
 日本に来てからというもの、刹那は自分を裁いてくれるものを待ち続
けている。それが死神だろうと、戦死であろうと構わない。後悔と懺悔
の日々からの解放を待つ彼は、死を望み、また死地へとその身を置くこ
とで自分が解放されることをただ、待つだけの存在になっていた。
 だが、彼の体に染みついた戦場の香りは簡単に彼を死なせはしなかっ
た。任務を遂行するたびにまた血塗られる己の身を呪いながらも、彼は
戦うことで自分がこの世に生きているという感触を味わっている。
 長年親しんだはずの死神は、まだ彼を冥府へと誘っていない。ゆえに
彼は今日もこうして自分の任務を遂行している。時が進むに連れ、感覚
が鋭敏になってくる。五感が研ぎ澄まされていく。戦いの臭い。死神と
女神の祝福が表裏一体となって待っている戦いの場。
「まだ、俺は償いきれていないのか・・・」
 自分が死なないということ。それが彼を落胆させている。自分など、
この光溢れる世の中には向かない。必要とされていないのだ。そう思う
たびに、彼は自分が生きている理由がないと強く感じている。
 無論、自殺もはかったことがある。だがそれでも彼は死にきれなかっ
た。幾度となく試してきた自殺。それでも、彼が生きてきたことを証明
するかのごとく、今もこうして彼は生きているのだ。
 盗聴器からは、まだ多岐川が店内にいるという事を伝えてくる喧噪が
あとを絶たない。時間だけがただ、過ぎ去っていくだけ。それでも刹那
は待ち続けている。

 男はスコープをのぞき込んだまま、微動にしなかった。地面に寝そべ
るようにライフルを構えている。彼の指は、引き金に掛かったままもう
何時間も同じ姿勢を保ち続けている。
 予想以上に時間がかかっている。だが、標的が現れるまで彼はその態
勢を崩そうとはしなかった。彼にとって、待つと言うこと。それ自体は
苦にもならない作業だった。待ち続けること。それが彼の仕事でもある。
 スコープに見えるものは、「真珠楼」とかかれたネオン。そして、そ
の入り口。集中することは、神経に多大な負担をかける。まるで、ライ
フルを構えた彫像を想像させる。それほど男は動かない。
(この日本という国は、本当に平和だ)
 入国を済ませてまだ幾日も経ってないが、それでも男はこの国が以前
自分がいた場とは正反対にあることを感じ取っていた。街行く人々の絶
えることのことのない喧噪。笑いと話が絶えない。
 懐に手を入れても誰も反応しない。これが同じ地球という星にある国
なのか?入国を済ませて間もない頃は、その考えが離れなかった。誰も
が幸せを楽しんでいる。
 彼のいた場所は、疑心暗鬼はびこる荒廃した社会だった。人が安易に
懐に手を伸ばすこと。それ自体が警戒を伸びかけなければならない。油
断していると、手にした拳銃が自分を向き鉛玉が飛び出す。
 誰もが笑いを浮かべるが、それは表向きのこと。心では何を考えてい
るかすらわからない。常に人を疑っていなければ、生き延びることがで
きない。社会体制は机上の空論。幼い子供ですら、生き延びるためには
誰かを陥れなくてはいけない。そのような国にいたせいか、彼の心も絶
望と人間不信というものを抱えていかねばならなかった。
 だが、この国を見てみろ。懐に手を伸ばしても誰も不審に思わない。
笑顔は心からのもので、人を疑わなくてもいい。幼い子供は夢を語り合
い、将来という見えない時間へと思いをはせている。
 この国は、平和に満ちている。誰も餓えない。誰も悲しまない。かつ
て彼等が目指していた夢物語そのものではないか。光と希望に満ちた社
会。確かに、その光の影には悪党が潜んでいる。だが、それも彼がかつ
ていたような社会からすると、その悪党ですらこそ泥と同レベル。
 この国のあり方がかつては目指していたものだとするならば、今まで
の自分はなんのために罪を背負わなくてはならなかったのか?そう考え
させられる夜もあった。
 今の彼にとって、仕事とは「自分が生きている証のため」としかその
意味を成していない。そんな思いにさせるものがこの国にはある。
(お前にも見せてやりたかった・・・刹那)
 弟のように可愛がっていたかつての同僚の名を彼は心で呟く。もし、
彼が生きてこの国にいるならば、いや、彼がこの国に生を受けているな
らば、街を歩く同年代の人間と同じように心から笑い、幸せというもの
を味わっているのだろう。
 それだけ、彼等が生きてきた所とこの国の有り様を比べると天地の差
が生じている。それゆえ、彼は弟のように思っていた少年を不憫に思え
て仕方がなかった。生きる。ただそれだけのために人を殺めさせ、血塗
られた道を歩ませている。
 この国に来て、考え方そのものを改める必要を感じていた。自分達が
夢見ていた世界。それは本当に正しかったのか。幼き子供までを戦場に
駆り立て、人を殺めさせてまで作っていかねばならぬものだったのか。
本当に、自分達は正しかったのか。
 男は意識を引き戻した。今は仕事中だ。私情などあとでいくらでも考
えることはできる。そう、仕事なのだ。その証拠に、スコープの中では
彼の標的とする男────多岐川がその姿を店内より現したのだ。


(13)〜紅との遭遇〜
「多岐川様。またのご来店をお待ちしております」
「おう、また来るぜ」
と慇懃に多岐川は店員に挨拶した。彼の機嫌はすっかり戻っていた。彼
は酩酊しながらも、ふらふらとした足取りで店をあとにした。
(来た・・・)
 刹那は店の影から多岐川を確認した。間違えない。あの姿には見覚え
がある。だが、彼の手の届く範囲まではまだ遠い。しかも、まだ店員が
いる。今彼の姿を見られるわけにはいかないのだ。
 まだだ。まだ早い。焦る気持ちを押さえつつ、刹那はグローブを直し
た。店内の会話が気になって仕方ない。なぜか美姫と紅葉が重なってい
る。それが、彼の気持ちを焦らせているのだ。
(今動けば全てが水泡に帰す。まだ早い)
動こうとする足を地面に無理矢理なすりつける。
 多岐川は上機嫌で鼻歌を歌いながら歩いてくる。やがて、店員が店内
へと消え始めた。もう少し。あと少しの辛抱だ。サングラスを直す。そ
の目が闇に光る。
 多岐川は刹那に気づくことなく通り過ぎていく。刹那はゆっくりと歩
み出す。足音させぬままそっと近づいていく。そして、手を伸ばせば多
岐川に触れるところまで近寄る。
「・・・多岐川さんですね?」
 ふいに背後から聞こえた声に、多岐川は顔だけ振り向かせる。
「ああ?俺か?」
「ええ・・・あなたですよ」
ゆったりとした動作と裏腹に、いつでも動ける体勢をとっていた。
「俺は確かに多岐川だが・・・おめえ、何ものだ?」
「あなたに名乗るほどのものでは無いですよ。ただ・・・」
「ただ?」
多岐川は胡散げな顔をした。新手の商売を持ちかけてくる連中とは何か
が違う。そう彼は感じている。体ごと刹那に振り向く。
「ただ、なんだ?」
刹那はゆっくりと笑みを浮かべると、
「多岐川さん。あなたにお伝えたい事がありまして」
「早く言えよ。俺は忙しいんだ」
「いえ。これからはもう忙しさなど関係ありませんよ」
 その一言で多岐川は目の前にいる男が味方ではないと判断した。懐に
手を伸ばす。だが、
「・・・遅いですね」
 ハッと気づくといつの間にか刹那は多岐川の後ろにいた。それも多岐
川に息がかかるかかからないのかの接近で。
「あなたをお連れします。多岐川さん。あなた・・・随分と仕事にせい
 をだしてますね。どれだけ懐が潤っているやら・・・」
「何者だ!」
 振り向けば、振り向く前にやられる。多岐川はそう判断し、懐に手を
いれたまま怒鳴る。
「この世に永久なる緑を・・・それだけでわかるかと思いますが?」
「き、貴様!?まさか・・・」
 多岐川は振り向き様に、拳銃を取り出し照準を付ける。しかし、その
瞬間拳銃は手からとばされていた。
「言ったじゃないですか。遅いですね、と」
手刀を放ったままで、刹那は笑顔を絶やさずに言う。
 ふと、その笑みが消えた。多岐川の腕に鳥肌が立つ。寒くもないのに
鳥肌が立ち、冷や汗が頬を流れる。
「この世の全ての人々に安らぎを。誰も餓えることなく、誰も悲しまな
 い。全てを無に帰す紅よ。混沌渦巻くこの世に現れし闇・・・闇より
 生まれ志し、一滴の懺悔の紅よ・・・」
 刹那は多岐川に手を伸ばす。多岐川は目を見開いている。
「闇よ・・・紅に還るがいい!!」
コートが広がり、多岐川の目一杯に紅が広がる。
「!?」
 一瞬の殺気だった。刹那は伸ばした手で多岐川の肩を掴み、引き倒す
ようにその場へふせる。
 刹那と多岐川が頭があった場所に、弾痕が現れる。刹那は多岐川を引
きずりながら、道の端々へと飛ぶ。次々にそれまで彼等がいた場所に弾
痕が現れる。そして、刹那の耳には確かに聞こえた。
 ッキューーン・・・・
銃声。それも、着弾にかなり遅れて。刹那は多岐川に当て身を喰らわせ、
その意識を奪うと、肩に担いで走った。
 ビスッ・・・ビスッ・・・
次々と弾痕が刹那の足下に浮かび上がり、彼の耳にはそれから時を遅く
して銃声が聞こえる。人の喧噪が聞こえてくる路地裏。それでも刹那の
耳は確実に殺気を感じては、そのかなり後に銃声を聞いていた。
(なんて正確な射撃なんだ・・・それに、これは一体なんなんだ?)
胸中は穏やかではない。ただでさえ、避けるのに精一杯である。しかも、
背中には人を一人背負っている。着弾位置を、これまでの着弾から予想
しては避け続ける。建物の影に入れば、一時はしのげるはずだ。

 男はボルトアクションをまるで散弾銃のように行っていた。ライフル
でありながら、ボルトアクションで特製の弾を次々と装弾してはうち続
ける。初弾は確かに多岐川の眉間をつくはずだった。それが、現れた黒
服の男によって弾道がそれた。
 狙撃手のモットーは「ワンショット・ワンキル」。それ以上は許され
ぬ世界。ところがどうだ。実際はワンショットで済むばかりか、立て続
けてに回避されているではないか。
 男のライフルは、超ロングバレルだった。通常のライフルの数倍の銃
身をもっている。銃底から、銃口まではゆうに3メートルはあるであろ
う。長いバレルのおかげで、銃声よりも着弾がどうしても早くなる。
 一般のライフルでは考えきれないものだった。しかし、男のは特注中
の特注でつくったもの。かねてよりの仕事の相棒だった。
「やってくれる・・・この俺の狙撃から逃げ続けているとは!」
 スコープをのぞき込み、右手でトリガーを。左手でぼるとアクション
を繰り返す。彼は、この相棒を「ホークアイ」、つまり「鷹の目」と呼
んでいる。確かに、このライフルにはその名がよく似合う。通常のライ
フルの数倍の射程を持ち、人知れず獲物を狩ることができる。鷹が遙か
上空から獲物を見つけ、襲いかかるような意味からその名が付けられた。
 無論、それだけの距離をとばすために必要な火薬も倍だった。だが、
その火薬こそがこのライフルに一撃必殺をもたらすことを可能としてい
る。リボルバー級以上の火薬を用いることにより、相手に与えるダメー
ジは一撃でその命を奪うのに充分なほどだった。
 試したことはないが、理論上では一撃で象数頭を仕留めることができ
るほどの大威力。これが人間に当たればどうなるかは、想像するに難し
くはない。
 男は、執拗に射撃を続ける。多岐川を担いだ黒服の男に、闘志がわき
上がってくる。同時に、彼こそが先程の殺気を放ったのだと直感した。
「おもしれえ・・・つまらない仕事には退屈だったんだ。どこまで逃げ
 切れるか、俺が仕留めるか勝負だ」
口元にはいつの間にか笑みが浮かんでいる。日本という国に来て、いや、
様々な国を渡り歩いてきて、ようやく彼は自分と対等以上に戦える相手
に出会ったことに喜びを感じていた。もう、仕事などどうでもよくなっ
ていた。

 刹那は飛ぶように壁際から壁際へと走り続ける。着弾の位置から、相
手がどこから狙撃しているのか想像している。なるべく遮蔽物になるだ
ろう、物陰の隙間から隙間へと走る。
 地面には弾痕が深々と残っていく。それだけでも、この狙撃の威力を
思い知っている。間違えなく、当たれば即死だ。遠くから殺気を感じる。
殺気を感じては、回避にはいる。刹那がよけきれている理由は、この殺
気にあった。殺気が自分を捉えるたびに、その場から離れる。その数瞬
後には、弾痕が打ち込まれていく。
 しかし、疲労というものが次第に刹那を包み始める。多岐川を背負い
つつも激しい運動を繰り返している。息付く間もない。それ故に、体が
酸素を求めて喘ぎ出す。
(あと、あと数百メートル。それだけ行けば、ビルの陰には入ってヤツ
 は撃って来れまい・・・)
視線だけを安全圏となるビルの影へと走らせる。だが、果たしてうまく
いけるだろうか。多岐川を担ぎ、激しい運動をさせられているのでは、
運動性も落ちてくる。刹那一人ならば、そう苦にはならないが今は別だ。
(何者だ?そして、これだけの威力のある銃とは・・・)
 薄々であるが、刹那にはこの銃がなんであるのか思い浮かんでいる。
だが、心のどこかではそれを否定している。その銃は世界にただ一つし
かなく、また扱える唯一の者も行方が知れていない。あの時、悪夢が引
き起こした災いにより、彼もまた帰らぬ人となったはずなのだ。
 そう刹那は考えている。物陰から様子をうかがうと、その鼻先すれす
れを弾が抜けていった。正確な射撃だ。あと数ミリ。数ミリ顔を出して
いれば打ち抜かれていただろう。弾の衝撃波をうけそうになり、咄嗟に
顔を退いて正解だった。
(一か八かだ・・・)
 刹那は物陰から着弾のタイミングを計って飛び出した。そして、懐か
ら取り出した小型投げナイフを宙に向かって放つ。
  キィィィン・・・キィィィン・・・・
 ナイフは空中で弾と接触して折れる。しかし、弾もその場で崩れ落ち
る。神業としか言えない技だった。刹那はナイフを立て続けてに放ちな
がら、安全圏に向かって走り続ける。
「バカな!?ナイフで弾を打ち返した!?」
男はスコープを覗きながら驚愕した。信じられない神業である。しかし、
手だけは動かし続けている。しっかりと刹那の姿を捉え続けている。
 何度もトリガーを引いては、ボルトアクションを起こす。獲物を狩れ
ないということ。それは屈辱以外の何でもないのだ。相手のナイフが尽
きるのが先か、こちらの弾切れが先か・・・神業同士がぶつかることに
なったのだ。
(残りは・・・二回投げてお終いか)
 胸中で舌打ちしながら、刹那はナイフを投げる。これで、残り一投分。
第三者による妨害を考えていなかったため、愛用の銃は今も夢幻にある。
置いてきてしまったのだ。何より、身軽でいる必要もあった。それ故、
装備は軽装備だけに止めてしまったのだ。
(俺も案外、平和ボケしたのかもな・・・)
 アメリカにいた時は今のようなミスはしなかっただろう。それが口惜
しかった。今まで一番鋭い殺気を感じ、咄嗟にナイフをとばす。
 キィィィン・・・・
ナイフは確かに弾をはじき返した。だが、予測もしないことが起きた。
 ナイフに弾かれた弾が、跳弾して多岐川の肩に食い込んだのである。
「ぐほっ」
多岐川のくぐもった悲鳴が聞こえる。刹那はしまった、と思う。ナイフ
で威力を殺したとはいえ、このライフルの威力はなめてはいけない。
 安全圏まで、しかも数十メートル。刹那には、弾を避ける体力もなか
った。対抗手段がない。それは、刹那にしてみれば「死」を迎えるに等
しい。多岐川を担ぎ、ダメもとで走る。
(これまでか・・・)
 あれほど「死」を待ち続けていた割には、喜びがなかった。むしろ、
任務を達成できないという悔しさがあった。
 走り続けながらも、相手の銃弾が自分をえぐることを考える。だが、
いくら待っても自分に襲いかかるはずの銃弾はこなかった。

 男はスコープから目を離した。同時に手も離す。弾切れだった。
「・・・・・・」
無言で刹那がいるはずの方向を見る。肉眼では到底確認することができ
ないその場所を見つめ、男は無言で立っている。が、
「フフフフ・・・クハハハハハ・・・・」
ふいにこみ上げてきた笑いに、彼は全身を激しく震わせた。
「まだまだ捨てたもんじゃねえな。この国はよ・・・次回を楽しみにし
 ているぜ・・・」
 男の笑い声は、街往く人々の声にかき消され、夜空へと吸い込まれて
いった。空には、月が輝きを放っている。

〜続く〜


To Be Continued !!

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