Keyの功罪・その2


さて、その1でもちょっと記述したんですけどKeyのお得意のゲーム作りというのは、基本的に「御伽噺」です。
エロゲーという実におどろおどろしい領域に、いきなり夢と希望溢れるものを持ちこんだ違和感は、それはそれは強烈でした。

あ、そうそう、今回の話はあんまり「功罪」とは関係なさそうです。

 

●Key的ストーリー重視主義

えーと、別にストーリー重視は良いんですけど、Keyの場合はそれを押し進めすぎてしまった点がありました。
それがつまりKanonの時に感じた異常な「臭さ」だった訳です。
尤も、表のレビューでも書きましたが、AIRに至ってその点は大幅に改善されてはいるんですけども、やはりKanon発売時点のストーリー偏重主義は、古参エロゲーマー達にとってはかなり受け付けにくい物でした。
俺もKeyの試みには敬服しつつも、やはりどうしても違和感を拭えませんでしたし。
特に凄かったのは、平気で人の綺麗な面のみを描いて、汚い物には蓋をすると言わんばかりの姿勢です。
更には、「奇蹟」という、それこそ完全にぶっ飛んだ、人間の努力とは全く無縁の物を平然と主題に出来る所に絶句しました。
これでは主人公や、他のキャラ達が必死になって努力したとしても太刀打ちできないではありませんか。
つまり、キャラの存在意義が極限まで薄れ切る主題を平然と用意しておいて、それを平然とゲームとして成り立たせる所が、どうしても常軌を逸しているとしか思えなかった訳です。

●Key的キャラ造形

更に驚いたのが、実際至近距離にいたら即座に「電波」乃至は「不思議ちゃん」扱いされるであろう、キャラの特徴を出すための小道具の数々です。
Kanonの(まぁAIRもそうなんですけど)ヒロインたちの口癖やら何やらを想像してみて下さい。
傍にいたら、と言うか実際見かけただけでヤバイと思いません?
タイヤキの食い逃げなんて、奥様、犯罪ですわよ犯罪。
勿論、夜中の学校に不法侵入して真剣を振り回すのも言語道断ですし、格ゲーが反射神経だけでこなせるなんてことありませんし。
そこまで別次元にキャラをフッ飛ばしておいても、彼らはストーリーを重視したかった訳です。
確かに俺が好きな「痕」だってキャラ設定は常軌を逸してますが、それでも普段の彼女達にはそれを感じさせるところはありません。
つまりはそこが大きな違いであって、現実離れでは済まされない異常さがKeyにはあった訳です。
そうまでして読ませたかったストーリーは、結局「御伽噺」だった訳です。
古参鬼畜エロゲーマー達がのたうち回った訳が分かろうと言うものです。

●「究極の萌え」の成立

しかし、キャラは単体では成り立ちません。
ストーリーの中で動いてこそキャラはキャラたることが出来る訳です。
そうしてゲーム中に動き出したキャラ達は、実にツボを突く行動を取った訳でして、こうしてKeyは「キャラに萌える人々」と「シナリオで泣く人々」両派閥のファンを獲得する事に成功した訳です。
そしてトドメとして、彼らスタッフはエロゲーからエロを抜くという、恐ろしい賭け(暴挙とも言う)に出ました。
結果的にはこれが大成功でして、処女性を重視する人々からの圧倒的な支持を得ました。
こうして「エロ無しエロゲー」という、あまりにも不自然な物が出来あがったのです。
これはある意味、ヒロインを主人公ではなく、プレイヤーの物として認識できるということになります。
まあ、凄く意地の悪い言い方をすれば、「プレイヤーの人形」に出来るってことです。
どう頑張ってもモニターの向こう側には行けないプレイヤー達としては、主人公に感情移入できるか出来ないか、それが重要です。
そしてエロゲーである以上エロシーンは避けて通れませんが、自分自身ならともかく、結局行為に及ぶのは自分の分身である主人公です。
こればかりは、どう感情移入しても違和感が拭えません。
つまり、ヒロインとのハッピーエンドを迎えても、それは「主人公とヒロインのハッピーエンド」であって「プレイヤーとヒロインのハッピーエンド」じゃないんです。
そこで、それをより実感として味わわせるために、スタッフはエロを抜いた訳です。
どうせそこで違和感を感じさせてしまうのなら、最初から無くしてしまえという事です。
つまり、キャラをプレイヤーの身近に感じさせるための最終手段だった訳です。
こうして究極の萌えが完成しました。

●Keyの成長

しかし、流石にKeyというメーカーは大したモノでした。
AIR発売は、まさに鍵っ子達に対する挑戦状とも言えるものだったのです。
なにせ正ヒロインは結局死ぬんです。
更に、主人公はその様を一部始終、ずっと見ていることしか出来ません。
前作で「奇蹟」という、全くもって安易に全てを解決できる、ある意味詐欺のような主題を持ってきながら、今回は凄く現実的な主題に着地させたのです。
「家族」という一番小さな人の繋がりを主題に置き、その中で繰り広げられる葛藤を描きました。
この主題から分かる通り、主人公は常に疎外者です。
つまり、主人公も「家族の温かさ」を求めるためにあらゆる事で自分の出来る事を考え、努力し、苦しみ、傷付き、格好悪く生きなければならない訳です。
当然、出来ない事はどうやっても出来ませんし、出来る事でも限界があります。
この事に気付いたプレイヤー達は、衝撃的なラストシーンを(ショックを受けつつも)受け入れる事が出来ました。
しかし、前作の甘ったるい夢を引き摺っていたプレイヤー達は、あまりにも巨大な衝撃に精神的に打ち倒されてしまった訳です。

●「御伽噺」から「物語」へ

更に、前作とは大きな違いを持った点がありました。
それは、主人公とヒロインだけでは話が成り立たない、という点です。
正ヒロインである神尾観鈴は、結局最終的に、「家族」というずっと求めていた所に辿りついて、幸せのうちに死んでいきます。
しかし、その裏側には、ずっと「母親」になることを恐れ、そこから逃避してきた神尾晴子がいた訳です。
晴子が歩み寄らなければ、観鈴は家族を知らないまま死ぬしかなかったんです。
そして、そのことに二人を気付かせたのが、主人公なのです。
そう、これはもう「神尾家子育て奮闘記」とも言える、ひとつの立派な「物語」なのです。
ここまでくると主人公と観鈴の話じゃありません、神尾晴子と、その娘の家族の物語です。
ですから、この話には「主役」という者が存在しません。
敢えて言うならば、その物語を紡いで行くのは晴子なのです。
自分を求めていた観鈴に、必死に歩み寄っていく晴子こそが、この物語の主役なのです。
ずっと拒否してきた物に立ち向かう、彼女こそがこの物語の主役なのです。
そして、もっと大きな視点で物語り全体を捉えれば、物語り全体を支配する過去の因縁の持ち主である、神奈の物語でもある訳です。
「ヒロインが観鈴である」という単純な言い方は、あくまで表面上の物に過ぎません。
なぜなら観鈴は神奈の一部であり、神奈が観鈴の一部ではないからです。
これは、ただ「キャラ萌え〜」とか言っていられる次元の話では無くなってしまった訳で、そういう意味では鍵っ子達の精神を、Key自らが粉砕して退けたという事になるでしょう。
しかし、やはり前作からの完全な脱却は不可能だったようで、各所に名残とも言える感動主義的なものが目についたりもしますが。

●変遷か変貌か

更に特筆すべきは、AIRにおいてはヒロイン同士の絡みを完全に排除している点です。
前作にてヒロイン同士を同じ屋根の下に住まわせたりと、横の連帯感を感じさせた作りを意識していたのですが、完全にそれを排除しました。
これは大きな特徴です。
なぜなら、通常同じ人間を好きになったりしたら、そこに必ず「嫉妬」が発生する筈です。
Kanonでは、不自然なまでにそこに触れることがありませんでした。
ですが、AIRでは最初からそこを排除してしまう事によって、全然別の物語を構築する事に成功しているのです。
つまりAIRにおける佳乃と美凪は、主人公にとっては「別の形の家族」であると同時に、「自分自身の幸せを追い求めた結果」でもある訳です。
主人公の母親が主人公に言った通り、或いは柳也が裏葉に言った通り、主人公は敢えて自分自身の幸せの形を選択した訳です。
この点、どのヒロインでも「結局奇蹟が起こってめでたしめでたし」だった前作とは、随分違います。
主人公の選択に、主人公の判断と葛藤を感じることができます。
やはり、Keyの話作りは只者ではなかったという訳ですね。

●Keyご乱心!?

ところが新作の発表があった今、エロゲーマー達の間に波紋が広がっています。
それは、何と新作の何処にも「18禁」の表記が無いという事です。
これはつまり、Keyはエロゲーブランドである事を放棄したと捉えて差し支えが無いということが出来ます。
半分は「やっぱりな」という気分ですが、半分は「血迷ったか!?」という気分です。
どうやら、あらゆる意味でKeyというブランド、まだまだ目が離せないようですね。


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