神話のお話

ここでは、神様について語ってます。なんだかな・・・。


NO・1 北欧神話の巻  

オーディン、またはオーディーン、北欧神話の神である。
アスガードという所にいて、戦没した戦士達の魂を、ヴァルハラという大広間に集める。この役目を担っているのが、かの有名なヴァルキリー、またはワルキューレである。
何でそんなことをしてるのかというと、最終戦争に備えて、だそうだ。
余談ながら話しておくが、某漫画で有名な、ウルド、ヴェルダンディ、スクルドというのはこの世界の女神さまのことで、三人でノルンと呼ばれている。
さて、対する悪魔側はと言えば、フェンリルとか、ロキとかが有名だろう。
この神話、なんとも救いがたいことに、最終的にはオーディンは、フェンリルの腹の中に収められてしまうと言われている。つまり負けるわけだ。
ああ、無常・・・。

さてさて、この神話を読んで感じたことだが、実に血なまぐさい。
これは、恐らく彼らを崇めていた連中の精神性と大きな関わりがある。
ゲルマン民族、と言えば血の気が多いので有名だが、彼らの主祭神であるオーディンが好戦的であるのは、自然の成り行きかもしれない。
古代、北方の森の中には、ケルト民族というのがいた。
彼らは皆、ゲルマン民族によって駆逐されてしまうのだが、このことと北欧神話を照らし合わせてみてみると、ゲルマン民族の精神性がはっきり反映されている、と私は思う。
つまりゲルマン民族は、戦いに最大の価値を見出してきた、と言えると思う。その是非は置いても、各地の神話が大抵平和の神というものを崇めていながら、この民族だけは(ホントは他にもあるが)戦いの神を至高神としているのだ。
面白いと思うのは、それでいながら結局最後は敗れ去る、と言われているところだ。
何となく、第二次大戦のゲルマン民族の運命を予告しているように思えるのは、私だけであろうか・・・。


NO・2 ギリシア神話の巻  

今度は、ギリシア神話を扱ってみよう。
この神話の特徴は、何と言っても、神様が沢山出てくるところである。
海の神様、太陽の神様、美の神様、狩りの神様・・・。
出るは出るは、それこそ、人間が認識出来る事象の全てに神様がいるといっても、過言じゃあない。

さて、考察を加えたくなるのは、この神話、まずは革命で幕が開ける(正確に言うと違うのだが)ところである。
始めに巨人族が地上を支配しており、それを現在の神々が追っ払って支配権を手に入れる、というものだ。
何となくだが、ここに、古代ギリシア人の精神性を垣間見れるような気がする。
巨人族、とは、彼らの世界観の中では「暴虐な支配者」であり、それを追い払った新たな神々は、極めて人間臭く描かれていて、万能どころか、欠点だらけである。
穿った目で見れば、これは、地上の支配権を人間が手に入れることへの裏づけを描いているとも言えなくない。
ギリシアの人々が、文明発生以前にどのような生活を繰り広げていたかは想像の域を出ないが、もしかすると、巨大な獣が闊歩する地上で、寄り添って生きてきた弱者としての遺伝子レベルの記憶が、そのような神話を創らせたのではないか。
巨人族とは、かつて怯えて暮らさなければならなかった、巨大な肉食獣たちの事であり、最終的に文明を手に入れて彼らに打ち勝った自分たちこそ、地上の支配者であるとの主張を、あからさまにしているようにも見える。

何にせよ古代ギリシアとは、学問とか、知的好奇心の発祥の地でもある。
日本人が関東平野で、呑気に(でもないだろうけど)貝塚なんぞを作っていた頃、既に政治体制の善悪などを語っていたぐらいだし、私にも因縁深い演劇なども、ここでこの頃に発祥しているのである。
歴史学とか、考古学とかの類が、人間主体で語られていたとしても不思議はあるまいと思う。
彼等がどういった目で自分たちの存在を捉えていたかは判らないが、もしかすると、人間の存在が、自然界の異端であることを、自覚していたのかもしれない。
だからこそ、彼らは自己正当化の為に、そんな神話を組み立てたのではないだろうか・・・。


NO・3  リグ・ヴェーダの巻

今度は、ちょっと目を移して、東洋に行ってみよう。
それにしてもこのコーナー、結構人気あるんだなぁ。誰も読まないだろうと思ってたんだけど。
ま、期待にそえるよう、気合入れていきますぜ!
それにしても、こんな事ならCGIプログラムで書いときゃ良かった・・・。もう手遅れだけど。

リグ・ヴェーダとは、ヒンズー教の経典というと80点。正しくは、その前身のバラモン教も含めている。
それと、「経典」というのとは少々ニュアンスが違う。
その正体は何と詩集。
神を称える歌の集合なのである。
考察を加えるべき点は、実にここにあると私は思う。

難しい話はおいておくとして、古代インド人(アリアン民族といわれる)の精神性は、実に豊穣なものだったのではないだろうか。
彼等が歌を捧げた神々の数は非常に多く、その神々の司るものも、極めて多岐にわたっている。
火、太陽、月、雨といった定番(笑)は勿論、おもちゃや器具、果ては感情の動きを司るものすらいる。こんなものにまで神の存在を認めた民族は、他にはなかなか見当たらない。
何とも感受性が豊かな人々である。
面白いのは、その神々の力を借りるには、より美しく、完成度の高い歌を捧げなければならないとされたところである。
この発想、どこかで聞いた事はないだろうか?
そう、言霊(ことだま)である。

言霊とは、言うまでもなく言葉には霊的な力が宿る、という思想である。
キリスト教にも「言葉は神であった」というのがあるが、言葉を捧げることによって神の力を借りるという発想は、なかなかユニークなものだといえるだろう。
多くの宗教が祈りの言葉が定められているのに対し、彼らには、より美しい言葉を捧げるという大前提がある。
これは、人間の能力が、そのまま雌雄を決するという思想ともいえる。
より優秀な賛歌を捧げる者が神の力を借りることができ、そうでないものは神に見捨てられてしまう。
実にシビアな世界ではないか。

ある意味で、彼らは神の存在を、真っ向から否定していたとも言える。何故なら、色々なものに神を認める一方で、人間の能力次第で神の力を借りれなくなるという思想を持っていたからだ。
多くの宗教は、神は祈りに応じて力を与えるものとされてきた。
だが、彼らの思想は、人間の能力が全てなのである。
実に面白い。

時代が現代に近付くに連れ、彼らの捧げる歌もまた徐々に形骸化していった。
優秀とされた賛歌が記録に残り、そうでなかったものは切り捨てられていく。そうやって編纂されたのがリグ・ヴェーダである。
結果として、彼らの神もまた、多くの宗教と変り映えのしないものになってしまった。
それはそうだ。優秀さ故に残った賛歌を歌えば、必ず神が力を貸してくれるに決まっている。
これでは面白くないではないか。

リグ・ヴェーダという物は、文化的・歴史的に見て極めて貴重なものであることは論を待たない。
だが、そこに残った歌だけを見ても、彼らの精神性の真の意味は解らないのではないだろうか。
私は、是非、切り捨てられていった賛歌達を読んでみたいと思う。
そこに息づく何かこそ、彼らの持っていた心を、何よりも雄弁に語ってくれると思う。
きっと、それはこう言うに違いない。
「神に祈って力を借りるより、まず自分の全力を尽くしてみろ。」と。


NO・4  紀記神話の巻・其の1

このコーナーに手を染めるのは実に久方ぶり・・・。
まあいいや、とりあえずいこうかね。

「其の1」と振ってあるように、日本神話は何回かに分けて扱うつもりである。何故ならば、語るべきことが多すぎるから。

で、一回目はどんな語り口で扱うかというと、「蛭子神」について考察してみたい。
「蛭子神」。ヒルコノカミと読む。
イザナギ、イザナミの子供で、彼等夫婦が子供を産むときに、女から誘いをかけたことによる穢れが生じ、それによって生まれた、言わば失敗作である。
彼等夫婦は子の失敗作の子供を子供と認めず、葦で小船を編み、大海原へと流し去った。
考察を加えてみたくなるくらい酷い話であること、ご理解頂けるであろうと思う。

少し話が飛ぶが、後の「延喜式」という書物にこんなフレーズが出てくる。
「高山、低山よりさくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津姫という神、大海原へ持ち出でなむ」。
読み方も記しておこう。
「たかきやまひくきやまよりさくなだりにおちたぎつはやかわのせにますせおりつひめというかみ、おおうなばらへもちいでなむ」。
で、大意は以下の通り。
高い山、低い山から猛り流れる川の瀬にいる瀬織津姫は、穢れを海に持ち去っていく。
とまあ、こんな具合である。

ちょっと引っかかるものがあるのではないだろうか。
そう、古来日本人にとっては、海とは「穢れ」を流し去るための場所だったのである。

では、その根拠は何か。
それは、恐らく日本人が「大河」というものを見たことがないからであろう。
日本の川は急流が多く、飛び越えられるような川も少なくない。
一方海に行けば分るとおり、対岸は見えない。
その巨大な懐の広さは、古代人にとっては、宇宙と同じ広さに感じたことだろう。
永遠に穢れを払ってくれるもの、それが海であった。

さて、ヒルコノカミである。
海に流されたヒルコは、その後はどうなったか不明のままである。
私は思うのである。
始めて穢れを背負い、海に流されていったヒルコは、そのまま海洋神となったのではないだろうか。
始めて穢れを背負ったからこそ、人々の穢れを受け止める、重い役目をも背負うことが出来るのではないだろうか。
父と母に見捨てられ、それでもなお人々の穢れを背負おうとする神、それがヒルコではないかと思うのだ。

では、神話の原型になった出来事を推測してみたい。
ある時、列島は連続的に地震と噴火にみまわれ、生活していた人々はその驚異に恐れ戦いた。
太占によって生贄を捧げることが決定され、その子は人々の穢れを背負って海に放り込まれた。
大規模な地殻変動によって荒れ狂う海は、そののち、ぴたりと収まり、人々は元の生活を取り戻した。
人々は生贄の子を神として祭り、穢れを飲み込む巨大な海を崇めることとなった。

・・・なんだか一般的過ぎて面白味に欠ける解釈ではあるが、こんなところではないかと思うのだが、いかが?


NO・5  旧約聖書の巻・其の1

さて、今回は物議を醸しそうだけど「旧約聖書」についての解釈です。
始めに書いておきますが、ユダヤ教とキリスト教は別のもの。
今回取り上げる「旧約聖書」は、どちらかといえばユダヤ教の経典に近いという事を覚えておいてください。

さて、俺は基本的に「一神教」には否定的なので、今回はかなり否定的なあたり方になるだろうと思う。
ます考察したいのは、「私は妬む神であるから」という、旧約聖書の一節。
今、残念ながら手元に聖書がないので、どこの何と言う節だったかは定かに出来ないが、これは紛れもなく書かれている言葉である。
その少し前には「神は完全である」というような書かれ方をしている。
もしも完全であるなら、「妬み」とか「嫉妬」という感情からは自由なのではないのか?
この矛盾はどこから来るのだろうか。

まず、ユダヤ民族というものの、歴史の中でのあり方を考えてみなければなるまい。
彼らの歴史は「漂泊の民族」と言っても良い。
殆ど、国家単位のジプシーである。
彼らが「イスラエル」という国家を建設するまで、彼らには定住すべき国家はなかった。
このコンプレックスはかなり重度のものであったろうし、彼らの精神に大きな影響を与えたことであろう。
古くはモーゼの時代から、最近は第2次大戦に至るまで、彼らの歴史には常に「迫害」という文字がついて廻っていた。
これは偏に、彼らが定住地を定めようとしなかったことに原因がある。
そして、彼らは直接の戦闘を避ける傾向があるようで、常に影での活動をメインにしてきた。
このあたりが「救世主思想」に大きな影響を与えてきたのではないだろうか。

救世主、というものは聞こえはいいが、要するに他力本願の最たるものだ。
自分で前に進もうとしない者達に果たして道は開けるだろうか?
彼等は、「神に祈る」という行為を自分たちの努力と勘違いした節があるのだ。
神に祈ることは、自分たちで何かを作り出していこうとすることとは全くの無縁。
だが、彼等は「祈る」という行為で何かが生み出されると思い込んだ。

勿論、これは今の彼らについて語っている訳ではない。
遥か昔の彼らの姿を推測で書いているに過ぎないのだが、それにしてもそう思わざるをえないのが彼らの経典となった「聖書」なのだ。
彼らが描いた「神」とは、少しも完璧などではなく、勿論完全でもない。
人間を作れば、それを失敗作と断じて洪水で洗い流してしまう。
完璧な能力があるなら、始めから失敗作など作るわけがない。
何故、こんな矛盾を抱えていながら、「神」を完全なものとして信仰しなければならなかったのだろうか。

思うに、彼等は自分たちの立場に常に劣等感を持っていたのではないだろうか。
それが自分たち自身のせいである事を認めたくないから、「我々の祈りが足りないから、行いが悪いから神は助けて下さらないのだ」という形で信仰せざるを得なかった。
自分たちの行いが神を満足させる事が出来れば、初めて自分たちにも道が開かれる、と考えたように思うのである。
その為に、「神」は完全でなければならなかったのである、彼らにとっては。
だが、所詮は彼らの想像で生み出したものに過ぎない神を完全なものとして描く事は出来ない。
だから聖書には、あちこち矛盾があるのだろう。

神の存在を至高のものに置きながら、彼等は長い年月をさまよってきた訳だが、今の彼等はそんな歴史をどう振り返るだろうか?
やはり、「神とは唯一無二の完全なる物」と捉えているのだろうか。
もしそうならば、敬意を表すべき頑固さだと苦笑せざるを得ない。
彼らの経典から分離し、世界を制したキリスト教との差を思うにつけ、彼らのあり方と思想に興味をそそられる俺であった。

という訳で、次回はキリスト教に行きます。
勿論、今回は「其の1」と振っただけに、いずれ第2回も行きますので。


NO・6  キリスト教の巻・其の1

さて、いよいよ「禁忌」とも言える領域の話だ。
またまた予めのお断りだが、彼らの宗教に対して俺はかなり否定的なので、そのつもりでいて欲しい。

キリストは伝承によれば西暦0年に生まれ(西暦4年生まれという説もあり、こちらが有力)、西暦33年まで生きていたとされる人である。
実在したことは確かではあるだろうが、聖書に書かれているような奇跡を起こせたかどうかはかなり怪しい。
今回書きたいのは、このキリストという人がどうして「神の子』として物語中で描かれているのかという事について。
思いつくまま、書き連ねていってみるとしよう。

キリストの説いたところによれば、人間は皆「罪」を背負って生まれてきたことになっている。
彼は無償の愛とも言える説を持ち、自らが全人類の代表として罪を背負って死んだとされている。
もしもこれが本当のことだとしたら、極めて傲慢な思い上がりとしか言いようが無い。
人の罪まで背負って死ぬなど、とんでもないお節介である。
さらに自分一人の双肩で、人類の全てを担えるなどと考えること自体が過信の極みである。
聖書に書かれている言動も、それを裏付けるものばかり。
聖書という書物をそのまま信用することは危険ではあるものの、なるべく曲解せずにキリストという人の人物像を探っていくと、傲慢で思い込みが激しい上、人を惹きつける魅力があったということだろうか。
これと似た歴史上の指導者達は幾人も出ているが、その先鞭は彼であったと言えよう。
「カリスマ」とは良く言ったものである。

では、こんな彼がどうして「神の子」と描かれていったのであろうか。

彼には13人の弟子がいたことは有名である。
キリスト教の今日の隆盛には、この13人の弟子達の力が大きく貢献している(ユダは別の意味で貢献している)。
彼らは最もキリストに影響された人物達であった訳だが、彼らが躍起になってキリスト教を広げた目的とは何だろうか?
当時、ユダヤの人々はローマ帝国の支配下にあった。
ローマは階級社会を敷き、多くの人々は貧困に喘いでいた。
つまり、社会的に見て大きな歪を抱えていた訳である。
この現状に対して批判的且つ攻撃的だったのがユダヤ教であった。
ユダヤ教では、「ローマ帝国を滅ぼせ」という言われ方をしていた。
これに対してキリスト教は、ローマもまた人の子、必ず分かり合えるという態度であった。
つまり、愛は全てを解決するという訳である。
結局、この姿勢がローマを内面から支配することになる訳だ。
思うに、キリストの真の狙いはそこにあったのだ。

彼らが真に恐ろしいのは、完全無欠の「狂信者」の集団であったところだ。
狂信者達共通の最大の特徴は、自分達の生存本能を越える何かを持っているところである。
彼らは自分達の命も顧みずにキリスト教の普及に全力を費やした。
それはつまり、自分達を信じている者達の理想的な未来を切り開こうとしたからである。
彼らは自分達の理想の未来以外、全く目に入らなかったのである。
これは最早、宗教テロといっても良い。
暴力が使われなかっただけで、世界を変えようとした動機は、彼らの理想のためだけだったのだ。
そして、世界史的に見ても稀なことに、彼らの「革命」は成功したのである。

キリストという人物は、恐らく先が良く見えるタイプだったのだろう。
早い段階から暴力を否定し、これから来るであろう布教戦争(敢えてこう書く)にいち早く先手を打ったのだ。
彼が弟子達と共に命を賭けたのは、全人類の平和などではなく、キリストという一個人が信じた理想郷の普及のためだった。
その実現のためならば、彼らは命も惜しまなかった訳だ。
人間は、暴力を振るう側を憎み、振るわれる側に同情する。
キリストはこの理屈を最大に活用してのけたのである。
その結果が彼らにとって満足すべきものかどうかは、墓の下にいる彼ら自身しか知らないことだが。

結局、生き残った者達が彼の言葉を最大の高みに祭り上げるには、「神の子」という表現が最も適当だったのだ。
こうすることで、旧約派のユダヤ教との関係も有利になる。
恐らく、キリスト自身は自分を「神の子」などと語ったことは無いと思われる。
彼を「神の子」として祭り上げる必要があったのは、主に弟子達のほうなのだ。
キリストは自ら「神の子」と名乗って処刑されたことになっているが、これは恐らく誹謗中傷である。
だが俺の想像通りだとすれば、ここで自分を処刑させることによって、人々の同情をより呼び起こさせることが出来ると計算していただろう。
結局、彼は誇大妄想狂でいながらも、片面ではしっかりと計算の出来る男だったと思うのだ。
その両極端さこそが、指導者の資格とも言えるものだから。

其の2に続く。


 

もーどろっと!