〜彼女の肖像〜
幸・ザ・ボス
燃えあがる炎の中で、俺は立ちあがった彼女と見詰め合っていた。
長い時間が俺達の間には横たわっていたが、俺達は今、業火の中でその時間を取り戻そうとしていた。
人形館。
俺達の出会った場所だ。
彼女はそこで、壁にもたれるようにしていた。
値札がついていた。
25マルク。
俺は迷わず、彼女を買った。
俺は彼女の美しさに、一目で心を奪われていたのだから。
当時、俺には恋人がいた。
彼女は、俺がその人形を買ったことを、何も論評しなかった。
俺はそれをいいことに、毎晩のようにその人形と話していた。
答える筈のないその人形が、俺には確かに、生きているように思えたのだ。
俺はその人形に、いろいろなことを訊ねた。
名前、年齢、出身地、誕生日、そして・・・、恋人の有無。
俺はそのとき、すでにその人形に魅せられていた。
時間が流れた。
ドイツは何時の間にか、ナチスドイツと名を変えていた。
俺の友人の一人だった、アドルフの奴が政権を握ったからだ。
奴のことは良く知ってる。
ガキの頃から、尊大で、根暗で、そのくせ何か人をひきつけるものを持ってた。
そして目立たないくせに、人一倍敵対心の強い奴だ。
おまけにプライドが高いんだ。
奴がこの情勢で政権を握ったのなら、間違いなく戦争になるな。
俺はそう思ったが、どうでもいいことだった。
予想通り、戦争は始まった。
俺は恋人とわかれていた。
彼女は、俺が人形にのめり込んでいることに気がつき、俺の中に危険な影を感じとってわかれようと言い出したのだ。
別に、俺には否やはない。
はっきりいってしまえば、もう、俺には彼女は必要なかった。
俺には人形があればそれで良かった。
戦争が世界的な規模になっていくに連れ、俺はある、抵抗し難い誘惑に駆られていった。
彼女を・・・、その人形に、命を吹き込んでみたい。
俺は、来る日も来る日もその方法を考えていた。
ある日、俺は怪しげな古書店に入った。
何気なしにはいったのであり、目的はなかった。
気晴らしにでもなるだろうと思って店内をうろついていると、そこにそれはあった。
中世錬金術法。
その本は、俺を強くひきつけた。
手にとってページをめくってみると、色々と怪しげなことが書いてある。
その中の一頁に、「命無き者に、命を与える法」というのがあった。
俺がそれを迷わず買ったのは、いうまでもないことだった。
読んでみると、そこにはかなり危険なことが書いてあった。
新鮮な人間の血液を人形に注入する。
要約すると、どうやらそういうことらしかった。
どちらかというと、ホムンクルスではなく、黒魔術に類することのように思えた。
だが、どちらにせよ俺の次の行動は決まっていた。
その日の夜、俺は生まれて始めて、人間を殺した。
更に時間がたった。
ドイツの敗勢は、もはや誰の目にも明らかだった。
遠からず、ドイツは降伏することになるだろう。
俺はすでに、7人の人間を手にかけていたが、人形は命を得て動き出すことはなかった。
アウシュビッツにも行った。
そこで、若いユダヤ人の女の血液を貰ったりもしたが、彼女は人形のままだった。
ベルリンの町は燃えていた。
連合軍の最終攻撃は激烈を極め、街中を無差別に爆撃が襲った。
俺の前には、燃えあがる明かりに照らされた、かつての恋人が横たわっていた。
炎が揺れ、不気味にその死体を照らしている。
俺はいつもの手順で、かつての恋人の血液を、彼女の中に注入した。
その作業の最中だった。
突然電話が鳴った。
俺が出ると、相手はアドルフだった。
「・・・ハウスホッファー、どうやら、ドイツは負けたようだよ。」
アドルフの声は暗い。
「そうか。それは残念だな。」
俺はそれだけを言った。
ほかに言いようもなかった。
「ハウスホッファー、私はこれから死ぬ。後の始末を頼む・・・。」
そう言って、アドルフは電話を切った。
・・・そうか、アドルフが死ぬのか。
戦争中、俺は何度かアドルフに進言したことがある。
ユダヤ人に対する政策も、もとは俺が言ったことだった。
世界支配構想も、俺が言ったことだ。
何時しか人は俺を、アドルフの智慧袋とか、ドイツの真の支配者とか呼ぶようになった。
全て、彼女の為だった。
彼女を本当の人間にしたいから、俺はそうしただけだった。
世界を支配すれば、彼女に命を与えられる人間がいるかもしれない。
ユダヤ人を殺せば、その分だけ血が手に入る。
ユダヤ人でなくても良かったが、アドルフがユダヤ嫌いなところから、丁度良いと思っただけだった。
それも、もう終りらしかった。
これから先はやり辛くなりそうだ。
そう思った時、俺は自分の目を疑った。
彼女が瞬きをした。
それから、ゆっくりと笑った。
想像していた通り、艶やかな笑みだった。
至近距離で焼夷弾が炸裂し、彼女の微笑を照らした。
炎の揺らめきを映して、彼女の微笑みは妖艶なものに見えた。
俺の全身が粟立った。
恐怖でも嫌悪でもなく、それは紛れもない、歓喜だった。
彼女はぎこちない動きで立ちあがって俺を見た。
俺も彼女を見つめ返す。
美しかった。
やはり、彼女は美しかった。
俺は彼女に歩み寄って、そして言った。
「・・・おはよう、アンナ。」
それは、彼女と始めてであった日から、密かに俺が呼んでいた名前だった。
彼女もゆっくりと口を開いた。
「おはよう、ハウスホッファー。」
何時しか、炎は俺達を包み込んでいた。
火炎の壁の中、俺は彼女を抱き締めた。
どんなにこの時を待っただろうか。
どんなにこの瞬間を夢見ただろうか。
「・・・遅かったじゃないか、アンナ。ずっと・・・、ずっと待ってたんだよ・・・。」
俺は万感の思いを込めてそう言った。
彼女は俺を抱き締め返した。
炎の爆ぜる音だけが、俺達の周りを包んでいた。
やがて、俺達の抱擁は終わった。
彼女は。少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべて、俺に言った。
「ねえ、起きたばかりで喉が乾いたわ。」
なるほど、そうに違いあるまい。
だが、俺は次の瞬間の彼女の表情を、絶対に忘れることはないだろう。
彼女は、凄惨な表情で、俺に言った。
「貴方の・・・、血が飲みたいわ。」
連合軍の指揮官達は、さぞ戸惑うことだろう。
俺は、愛用の日本刀で、同盟国の古い作法に従って腹を切りながら、そう思った。
何せ、ナチスの黒幕と呼ばれた男が、人形を前にハラキリしているのだからな。
俺の腹から流れ出た大量の血を、音を立てて飲みながら、アンナは幸せそうな顔をしていた。
俺が最後に見た物は、口の周りを真っ赤に染め上げた、幸せそうなアンナの笑顔だった・・・。
〜〜FIN〜〜