コラム!!
何について語るかは気分次第。さて、今日のお題目は?


2002年  4月 23日   斬鉄剣のテキストに思う

えーと、今回は他サイトさんのテキストに言及。
と言っても、ネガティブアクセスでもなければ、晒し行為でも他人弄りでもなく、単純に感銘を受けたってことだけであって、この前みたいなゲロ吐きではありません。
と言うか、こんな大手さんにケンカ売ったらお終いなんですけどね。

さて、まずはいつも通りのお断りです。
しつこいくらいに言及しますが、俺は「テキストサイト」を運営しているつもりは毛頭ありません。
テキストサイトの周辺事情にはそれほど明るくありませんし、あの世界は「見て楽しむ」モノだろうと思っています。
ただ、今回ここで紹介しようと思っている記事は、ある意味サイトにとっては不変の法則に近いんじゃないかと思ったもので。
こういう言い方もナニなんですけど、世の中にあるサイトの殆どが、この「テキスト」と言うものからは逃れられないんじゃないかと思うんです、俺は。
事実、うちなんかもかなりのテキスト量がありますよね。
普通に画像をメインにしている所とかでも、結局説明を書いたら、その説明をなるべく「分かり易くする」という必然性が出てくるんじゃないかと思いますし、それは言わば「テキストの書き方」ってモノに繋がってくるんじゃないかと。

今回ご紹介したいテキストは、恐らくサイト管理者、それから読者としての双方の心構えとして、一つの目安になるんじゃないかと思う訳です。

それから、こういう事を書かないと何処で誤解されるか知れたものではありませんから、一応お断り。
俺は所謂「斬鉄信者」ではありません。
確かに斬鉄剣は面白いサイトさんだと思っていますし、多分「ファン」と言われればその通りです。
ただ、俺はナミ氏の擁護をする気はありませんし、味方だとかいってしゃしゃり出るつもりもありません。
それは恐らくナミ氏と、ナミ氏に関わる周辺の方々を馬鹿にする行為であり、それ以上に「テキストサイト」との関連がないとしている俺自身の言葉に反します。
単純に、「このテキスト面白いよ」って言いたいだけです。
宜しいですね?

では、まずこちらを読んでみて下さい。

続けてこちらをどうぞ。

それから、「斬鉄剣」さんのトップはこちらになります。

中々に面白い比喩であり、同時に分かり易いと思いませんか?
これは「読み手」としての一つの見方を示したテキストですけど、これは逆から捉えれば、テキストを書いているほうの「書き手」のあり方にも繋がってくると思うんですよ。
例えば、「打率と長打率」についてですけど。

ホームランバッターは常に「甘い球(ネタにあたる)」を逃さず待っている訳で、これを的確に捕えれば、それはホームランになる可能性が高い訳です。
ですが、打ち損ねればフェンス手前で失速する可能性もありますし、悪ければピッチャーゴロにもなります。
つまり美味しいネタをどれだけ確実に捕えられるかってのは、サイト管理者の腕の見せ所と言えるんじゃないかと。
勿論、中には敬遠のボールを無理矢理ホームランにする人もいる訳で、そういうのは力技であり、失敗する確率は高いですよね。
ですから、ホームランバッターが練習で特打をするように、サイト管理者は「ネタに対する感性を磨く」という訓練が必要じゃないかと思う訳です。
そうする事によって、初めて甘い球を見逃さずに、的確に捕えられるようになるんじゃないかな。

どうでしょうかね?

勿論、「対決する相手がいる野球とか、沢山の人間の手を経由して発表される音楽とかと、自分の世界の表現であるテキストを一緒にするな」という論法もありだとは思います。
でも、そう思う前に、何となく考えさせられませんか?
実は今回、一番強調したいのが、この「考えさせられる」って部分です。

ちょっと論点がずれるんですが、「考えさせられるテキスト」って結構名文だと思うんです、俺は。
それは勿論、今回のように「テキストサイト」って限定じゃなく、どこに行っても同じだと思うんですよ。
まあ、うちを例えに使って言いますけど、「俺はテキストサイトなんざやってないからいい加減なテキストでオッケー」ってのは、読む方としては「ちょっと待ってくれ」って言いたくなるんじゃないかと思います。
先述の通りですけど、画像のみを散らしてるサイトならともかく、少しでも「読み物」に類する物を上げているなら、それを受け手に「わかりやすい形で」伝える事は、重要だと思うんです。
義務も責任もありませんけど、そうした方が良い、とは言えるんじゃないかと。
それは勿論、笑える物である必要は無くて、受け手側に何かを残すような物である事が重要だと考えます。

そんな訳で、そういうテキストを書くための心構えとしてこの考え方は結構有効だと思いますし、同時に、このテキスト自体が既に「良い見本」になっているんじゃないかと。

何と言うか、読んでいて反論が浮かんでくるってのも、テキストとしては重要な事だと思いますし、逆に同意して頷いてしまうのも、テキストの魅力だと思います。
そういう捉えかたをしている俺としては、この斬鉄剣さんのテキストはかなりグッドなテキストです。
反論する余地もありますし、同意すべき点もある、そんな印象がある訳です。
しかも、それが「テキストの書き方」を題材にしているとなれば、尚ご紹介したい衝動に駆られる訳でして。

ちょっと前に、俺は「自己満足」でサイト運営をしていると書きましたが、それは基本中の基本です。
ですが、サイトを持つという事は、誰かに対して情報を発信しているという事で、管理者には、その情報に対する責任があると思うんですよ。
間違った事を書いたら訂正し、反論があればそれを聞くとか。
いった事の責任を放棄してしまうのは、サイト云々ではなく、人としてどうかと思いますし。
そして、出来るならば、なるべく読んでいてインパクトのある情報を掲載する、とかね。
うちがそれを出来ているかというと、それはもう首を90度くらい傾げたくなるんですけど、出来る限りそうあろうとはしています。
で、うちのテキストを読んだ人が、そうあろうとしてくれれば嬉しいですし、逆に反論をくれても嬉しいです。
俺にとっての目指すべきテキストはそういうものであり、その指針として、今回の斬鉄剣さんのテキストは持って来いだと思う訳です。

という訳で、派生する可能性がある危険を顧みずに文中リンクでご紹介します。
本当はもうちょっと早くにご紹介したかったんですが、旅行中だったもので今回まで先延ばしになっちゃいました。
ううっ、アクセス乞食とか構ってくん扱いされたらヤだなあ……。

出来れば放置の方向でお願いします。 ←ヘタレ理論


2002年  5月 1日   鍵っ子とバ鍵っ子

うわ、今回はいきなりケンカ売ってるタイトルだな。
とはいえ、「鍵っ子」と「バ鍵っ子」をひと括りにし続けるのは良くないし、恐らくこの二つには明確な違いがあると思うので、やっぱりこのまま通して書こう。
と言うか、今までひと括りにしてたので、ここから先は明確に分けて書く、という意味での宣言みたいなものだと思ってくれ。

基本事項だが、「鍵っ子」にしろ「バ鍵っ子」にしろ、共通であるのは「KEYのファン」という事である。
因みに、ここで「KEY」について説明はしない。
申し訳ないが、分からない人はこちらから戻って下さいませ、今回の話は全然面白くないだろうから。

さて、明確に両者が分かれるのはどこからかというと、「鍵っ子=KEYファン」であるのに対し「バ鍵っ子=KEY狂信者」である事だと言えるだろう。
単純に「鍵っ子」というのは愛称みたいな物であり、それを言ったら俺も立派に鍵っ子だな。
これは全然問題が無いレヴェルであって、特定のメーカーが好きだというファンくらい、いくらいてもおかしくはない。
鍵っ子には良心以前に分別や常識があり、他者とのコミュニケートに困る事は無い。
勿論、他者の価値観を否定したり、無用に貶める事もない。
当たり前と言えば当たり前の姿で、これは所謂「一般的なエロゲー好き」が偶々「KEYこそベストメーカー」という価値観を持った程度の事にすぎない。
あ、そう考えると俺は厳密には「鍵っ子」ではないな、マンセーってんならGROOVERの方がマンセーな訳だしな。
つまり、俺は「プチ鍵っ子」という所か。

さて、これに対する「バ鍵っ子」とは何かというと。
彼らの価値観は絶対であり、究極の真理である。
彼らは「KEYのゲームは絶対不偏の名作であり、この世に光明を齎す救いの経典」という位置付けだと信じており、しかも厄介な事に、それを他人に押し付けようとするのである。
無論、反論の余地はそこには無い。
少しでも批判など言おうモノなら、彼らは「敵」と認識して、思想矯正に走るのである。

これが狂信者でなくてなんであろうか。

ある掲示板で、ちょっとした「鍵っ子VSバ鍵っ子」の戦いを見たことがある。
「鍵っ子」はKEY作品の良い点を称揚しつつも、批判点や疑問点を提示する形での書き込みを行っていた。
更に彼は他のメーカーとの比較や考察などを交えつつ書き込んでおり、ややKEYに対する贔屓目はあるものの、大意としては分かりやすく、意味の通る書き込みであった。
これに対して、即座にレスをつけてきた「バ鍵っ子」は、まず真っ先に批判点として挙げた部分に噛みつき、感情的に説明を求める書き込みを行った。
これに対して、先に書き込んだ「鍵っ子」はなるべく丁寧に応対しつつ、不快感を催したのなら謝る、と書きながら、自分の意見をより分かりやすい形で書き直した。
それに対し、「バ鍵っ子」は「それは間違いだ、これが正しい」とのたまって己の持論を披露し、続けてKEY礼賛の言葉を浴びせ掛け、更にはそれが分からないヤツはダメだ、的な事を書いていた。

これをROMっていて、俺はやや苦い気分になった。
何故かと言うと、これは先日、俺と、俺の知り合いの間で交わされた会話の繰り返しだったからだ。
勿論題材や内容は違うが、会話の雰囲気や展開が、全く同じだったのである。

改めて書くが、俺は「Kanon」というゲーム、あまり好きじゃない。
人に勧めたり、初めてエロゲーに足を突っ込むのには良いものだとは思うが、俺はゲームとしてそれほど評価はしていない。
とはいえ、このゲームが「クズ」だとか「ゴミ」だなどとは言うつもりは無い。
いや、正直言うと、一昔前までなら言っていたかもしれないが、今はそんな不見識な発言はしないし、そんな考え方自体が無くなっている。
それは置くとして、取り敢えず「Kanon」をやって、俺は泣いた。
矛盾するような事だと言われるかもしれないが、あの真琴シナリオは流石に泣かずにはいられなかった。
しかし、逆にその点が気になったのであって、考察を巡らせた結果、「いくらなんでも臭い」と思ったのである。
さて、一方「AIR」なのであるが、ジョジョエアなんてモノを書いている通り、俺はこのゲームはかなり好きだ。
途中紆余曲折は色々とあったが、今の結論は間違いなく「好き」である。
しかし、逆に「AIR」では涙は流さなかった。
肝腎のゴールシーンでも、俺の涙は流れなかった。
それでも断言するが、俺は「AIR」の方により深く感動した。

これは俺の持論だが、「Kanon」はアイスピック、「AIR」はハンマーだと思っている。
早い話、「Kanon」の感動というのは一過性というか、一度醒めてしまうと治りが早いのだ。
きつめの言い方をすると、泣かせ方が稚拙なのである。
勿論、それでも泣いたからには俺は認める、悔しいが認める、否定する事は出来ない。
しかし、鋭い針が深く刺さるタイプの感動を主体とする「Kanon」では、余り「心に残る物」が無かったのも、これは否定できない事実なのだ。
これに対し「AIR」の感動は、それこそ持続性と言うか、慢性なのである。
何と言うか、心に残る物がありすぎるのである。
まさに、「刺すような感動」ではなく「ブッ壊すような感動」なワケだ。
まあ、俺がグダグダ語るよりも、実際ファンサイトを回ってみるとか、自分で情報を集めてみるのが良いだろう。

勿論、一番良いのは自分でプレイする事だけどな。

さて、この俺の持論と感想、これをある男に語った事があるのだ。
勿論面と向かっての話である。
結果がどうなったか。
なんか言うまでもないような気もするが、俺はそいつに滅茶苦茶に怒られたワケだ。
そりゃもう、あまりの怒り方に思わず謝っちゃったくらい。
しかもそいつ、俺が「陵辱マンセー・鬼畜最高」と言ったら、汚らわしい物を見るような目で見た後、「歪んでるね」とか言ってくれやがった。
何言ってやがる、自分だってバ鍵っ子だってのがバレて女の子に振られたくせに。
歪んでやがるのはどっちだよ……って、おっと、口が滑った。
それはともかく、俺はちゃんと「AIRは良い、俺は好き」と言ったのにもかかわらず怒られた訳だ。
何故かと言うと、俺が「Kanonはダメ」と言ったからである。
いくらなんでも酷いと思わない?
俺、ちゃんと認めるところは認めてると思うんだけど。

正直言って、「鍵っ子」と「バ鍵っ子」を同列にしてはいけないと思うようになったのは、この瞬間からである。

他人が違法行為や、明らかに不快感を催す行為をしているのなら、それは怒るべき事だと思う。
だが、他人の価値観が自分と違っているからといって、それを怒られても、怒られた側としては戸惑うだけで何も出来ない。
この分別がないってのは、はっきり言って精神的にかなり重症だと思う。

多分、この手の「バ鍵っ子」諸君は、キョウジさんの「ジョジョカノ」とか俺の「ジョジョエア」なんてモノは、汚らわしい汚物にしか見えないんだろうな。
冗談じゃないぜ、好きで好きで仕方がないからああいう形でトリビュートしてるんだけどな。
それだけこちらも気合いれて「鍵っ子」しているってことだけは、ちゃんと認めて欲しいものだね。


2002年  5月 8日   未来への遺産

これを書いている時点で、今年のセ・リーグの首位は相変わらず阪神タイガースである。
流石に一頃の鬼のような強さは無いものの、逆に堅実な強さが感じられる戦いぶりで、見ている身としては自然と応援したくなってくる。
ついでに言えば、去年までのあの成績がなんだったのか、首を傾げたくなってくる。

さて、世知辛い世間には「前・野村監督の解任により選手たちが活気付いたのが勝因」みたいに言っている人たちがいる。
果たしてそれは正しいと言えるだろうか。
俺の見解を言えば、半分は正しいと思う。
勿論、俺は野球選手じゃないから、正確な事は何も分からない。
今から書くのは、単なる推論であると考えて欲しい。

さて、現在阪神の監督をしている星野監督だが、彼の選手操縦手腕と言うのは球界でも定評があるらしく、この点については高く評価されている。
傍から見ていても「上手いなあ」と思うことが多く、選手たちが星野監督になってやる気を出した事は、一面の事実だろう。
しかし、だ。
やる気を出しただけで勝てるほど野球は甘くない。
これは絶対である。

では、今年の阪神が強いという「基盤」になったものは何か。

それは恐らく、野村監督が残したものの中にあると俺は考える。
野村監督の野球理論、或いは野球に対する認識というのは、俺の見るところ球界では突出している。
あの新庄を育てた経歴を見ても、それはある程度推論できよう。
一方、星野監督は野球に対する「情熱」は高く評価できる。
しかし、基本的な戦略について見れば、やはり野村監督には一歩譲る所がある。
ここが重要なポイントだと思う訳だ。

さて、昨年の村監督の身辺には色々な事があったワケで、これが元で野村監督の評価ががた落ちになった事は俺が言うまでも無いだろう。
そこへ持って来て、今年の阪神の快進撃である。
この状況を冷静に分析してみて欲しい。
必要以上に星野監督を持ち上げ過ぎていないか?
必要以上に野村監督を貶めていないか?

俺としては、星野監督は野村監督の作ってきた下地を上手く生かしている、と思う訳だ。
勿論それはそれで非凡な手腕であって、決して評価を落とすものじゃない。
就任1年目の監督が、目に見える形で結果を成績に反映させる事は、極めて難しい。
それが出来るのは、やはり星野監督の手腕であろう。
しかし、どんな凄腕監督であっても、自分の野球理論を選手に浸透させ、実践させるのは難しい。
それが1年目であるなら、まず不可能だと俺は考える。
いくら星野監督でも、それは多分同じだろう。

俺が思うに、野村監督が阪神に残してきたものは、かなり大きなモノだったと思う。
恐らく、それまでの阪神の成績や選手の動きなどを考えてみると、野村監督は選手たちの野球に対する意識の改革を行ったものと思われる。
これがどれほど効果的なものだったかは想像の域を出ないが、選手たちの潜在能力を引き出し、効果的に点を取る野球というものを教えてきたであろう事は間違いないだろう。
これを野村監督時代に選手たちが実践できなかった理由は、恐らく、野村監督の人望の無さである。

野村監督は嫌われ者、これは結構定着した構図である。
何となく粘着質なイメージがあるし、結構御年がいっている人だし、選手たちとのコミュニケートでは煙たがられた事だろう。
この精神的な部分が選手たちの足枷になっていたのではないか。
誰でも経験はあると思うが、例えどんな能力があっても、できる事があっても、こういう人と一緒では今一つ乗り気にならない、ってことはあるだろう。
これは大きい。
いくら能力があっても、精神的に満たされていない時は十全に発揮されないものだ。
恐らく、昨年までの阪神の状態はこれだったと思う。

今年、情熱的でありながらも、あの人懐っこい笑顔が印象的な星野監督に替わったのは、非常に大きいと思う。
野村監督のあのどちらかと言うと陰のイメージから、大きく180度監督の人柄が替わったのだ。
刺激という事を考えただけでも、かなり大きな効果があった筈だ。
また、これは恐らく想像だが、野村監督はあまり人を「褒める」という事は無かったと思うのだ。
その代わり、大声で怒ることも無かっただろうが、却ってこういう人は、陰湿なイメージを持たれてしまいがちだ。
俺はそうは思わないが、やはり長い間顔をつき合わせていると、こういう人には疲れてくるだろうと想像は出来る。

一方、過去の乱闘劇が示す通り、星野監督と言えば怒る時の派手さが有名だ。
だが、星野監督という人は、選手を褒める時は派手に褒める人だろうと思う。
これも大きい違いであり、悪く言えば燻っていた阪神の選手たちは、初めて野球で褒められる「喜び」というものを知ったと思う。

しかし、だ。

阪神の選手は、野村監督時代には「ネチネチと言われないために」必死でプレイしていたと思うのだ。
この時の「必死さ」というのは、そのまま野球力(今俺が作った造語)の基礎力に繋がっていったと思う訳である。
勿論、それは野村監督が3年かけて教え込んできた、非常にハイレヴェルなものであり、それを選手たちは実行できる地力がついていたと思うのである。
星野監督は上手くその地力を引き出し、適材適所の判断を下す事によって勝ち進んでいる。
勿論、星野監督の鋭い眼力があったればこその結果だと俺は思う訳だ。

阪神が真に「強い」と言われるためには、今年は勿論このペースを続け、優勝戦線に加わり続けなければならない。
それと同時に、来年も一定以上の成績を残さなければならない。
それが出来た時、俺は始めて星野監督の評価はもっと大きくなるべきだと思うのだが……如何なものか。


2002年  7月 3日   内面と外面

以前もちょっと書いた事で恐縮なんだが、また書きたくなったので、久し振りにここに書き散らかしておく。
久し振りだな、ここを更新するのも。

さて、人間が人間に対して抱く感情というのは、一番はじめは「第一印象」という奴で決まる。
これは至極当然の事だ、何せ一番はじめは一切情報が与えられていないんだから。
じゃあ、この第一印象という奴、一体どのような「判断基準」なのか、それをちょっと考えてみて欲しい。
で、大方の人は「外見」というところに判断を置いているんじゃないかと思うんだが、いかがか。

俺の場合、この「外見」という奴には、殆ど信用を置いていない。
何故かと言うと、格好として俺が嫌いな格好をしている奴が、実はかなりいい奴だったなんてことは、過去いくらでもあったからだ。
つまり、第一印象として基準に据えるものが「外見」であるとしたら、これは殆どあてにならない価値判断だとしか言いようがないのだ。
「あーゆー格好してる奴って嫌いなんだよな」と思うのはいいが、実際付き合ってみると馬が合う、よくある話じゃないか。

では、俺はどこで人間を判断しているか。
それは「喋り方」である。
声の出し方、表情、目の色、視線の位置、そういったものが俺の価値判断になる。
上手く行けば、相手の話題への乗り方から内面の一部を伺う事も可能だ。
そういう訳で、俺にとってはこれが一番楽で、一番妥当な「第一印象」であると言える。

さて、俺のことはひとまず置くとして。
外見というなかでも「服装」というもので相手を判断する人間を、俺は逆に信用しない。
「ダサい格好だ」とか「センスが無い」とか「汚らしい」だとか、そんな事を平然と言える奴を俺は心の底から憐れみ、蔑む。

実際、俺はセンス云々なんかどうでもいい。
平気でご近所そこらへんを寝巻でうろつく人間に、センスもへったくれも無い。
というか、俺から言わせれば、服に金をかけるなんざ、この世で一番の無駄遣いだ、勿体無いにもほどがある。
小奇麗な格好だとか、小洒落た服装だとか、お笑いもいいところだ。
服なんか着れればいいんだ、着れれば。
それ以外の用途なんかありゃしねーよ。

例えば、髪型がやだとか、肌を焼いてるところが気に入らないだとか、化粧してるのがいやとか、そういうのはまだ分かる。
何故なら、それは結局「自分自身の肉体」の改造だからだ。
服みたいに「体を隠すための布着れ」なんかと違って、自分の体に手を加える事で、揺るぎ無いアイデンティティの一部となる。
ならば、そこを判断基準にするのもいいだろう。

だが、服装は全然違う。
あんなものはただの飾りであって、実用性はただ一点、体を隠す事だけだ。
こんなものを判断基準にする奴、俺はその程度の奴だとしか思えない。
服装の乱れは心の乱れ、か、最高のギャグだと思うんだが、どんなモンかね?

まあ、それは置いておくとしてだ。
相手が好感を持つ服装とか賢しくいう奴がいるが、第一印象という場合、そんな物は存在しないと俺は断言する。
超能力者じゃあるまいし、分かる訳が無い、そんな服装など。
だから、小奇麗な格好とか、不快感を与えない格好だとか、そんな物はただのお笑いだ。
ここに実例がある。
俺はスーツってものに嫌悪感を示すタチだが、世間ではそれが小奇麗で不快感を与えない事になってる。
その時点で俺を不快にさせているんだから、一般論なんかどれほど根拠が薄弱か、底が知れるってものだ。

相手が不快に思わない服装なんて、そんなものを心がけるヒマがあるなら、自分を偽ることなく出せる楽な服装をすべきだ。
そうする事によって、初対面でも相手に萎縮する事無く、また偽りなく自分を相手に曝け出せる。
見せるべきものは表面上の姿じゃない。
偽り無い自分の姿だ。
それを見せる事なくして、信頼関係なんか築く事は出来ない。
それがたとえ初対面であっても、相手に期待し、また自分もいい印象を持たれたいなら、迷わずそうすべきだ。
表面上の姿で誤魔化すな、と俺は言いたい。

人間の価値は内面、これは俺にとっては絶対の真理だ。
そして、その内面は服装如きチンケ極まりないものでは絶対に理解できない、これも俺の中では真理だ。
行動や言葉、思想は表面上では誤魔化せない。
だから、人間は内面が大事なんだ、と結論付けておく。


 

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