〜〜〜山麓〜〜〜
幸・ザ・ボス



 どうしてこんなことになったのだろうか。
 俺は暗闇の中で、ただそれだけを心の中で反復している。
 なにをどう誤ったのだろうか。
 最早呼吸の音すら途切れがちな二人の人間。
 俺は、何も見えない暗闇の中、身動きもせずにそれだけを考えている。

******1日目******

 まだ雪融けが完全で無い日本アルプス。
 春の息吹は感じられるものの、辺りを見回せばそこかしこには冬の名残がある。
 ここに俺を誘ったのは一美だった。
 同棲してもう2年、お互いを知り尽くした俺達は、お互いのバイオリズムの低下に敏感になっていた。
 彼女は俺の精神的なバイオリズムの低下を感じ取り、気分転換に俺をここに誘った。
 そのことを彼女は口に出しては言わない。
 自分の我侭に見せて、そうする事で俺に気を使っている、彼女なりに。
 そんな事ぐらいはお互い分かっている。
 付き合いが長いのだ。
 今更二人の間に新しい発見は無いが、こういう関係は俺も嫌いじゃない。
 そのことを彼女も理解している。
 そして、お互いに口に出すことは無いのだ。
 二人はそんな関係だった。
 二人の間に、煩雑な言葉はもう必要ではなかった。

******2日目******

 山歩きの好きな一美。
 俺は山道を取り残されがちだった。
 彼女の山歩きはかなり本格的なもので、お遊びの範疇ではない。
 アウトドア派らしく、彼女はまるで自衛隊の山中行軍訓練のような重装備をしている。
 それがまた似合う。
 5日間で帰還する予定ではあるが、その間彼女と俺は全てテントで眠るのだ。
 今日も日が暮れようとしている。
 山の水で体を拭いたあと、食事を摂る。
 野外の飯も悪いものではない。
 満点の星の下、自然の声だけを聞きながら、俺達は黙って飯を食っている。
 やがてそれが終わると、どちらからとも無く求め交わる。
 深い自然の中、俺達はオスとメスに帰っていくのだ。

******3日目******

 平穏無事な一日だった。
 何も無いまま終わろうとしている。
 今日から山を降り始めている。
 山頂の景色は美しかった。
 リフレッシュには最適だったと言えるだろう。
 一美には感謝している。
 裸で彼女と抱き合いながら、俺は彼女にそれを伝えてみることにした。
「・・・一美、ありがとうな・・・」
「・・・うん」
 彼女は軽く頷いて、優しく微笑んだ。

******4日目******

 天候が荒れた。
 かなりの嵐だ。
 困ったことになった、一歩も動けないのだ。
 これは一日予定が延びるかもしれないな。
 俺はそう思った。
 彼女も概ね賛成で、無理はしない方が良い、と言っている。
 山では無茶は禁物なのだ。
 素人の俺でも知っていることだ。
 俺達は大人しく物陰に身を潜め、そこにテントを張った。

******5日目******

 最悪だ。
 予定のコースが嵐によって滅茶苦茶にされていることが判明した。
 俺達は来たコースを戻らなければならなくなった。
 その途中、一美が怪我をした。
 かなりの大怪我だ。
 彼女のミスじゃない、俺のミスだ。
 俺が岩場から足を滑らせ、彼女を巻き込んで落ちた。
 彼女は俺の下敷きになったのである。
 それだけならまだしも、彼女の落ちた所は運悪くも岩場だった。
 緊急にその場でキャンプし、遭難救助信号を打った。
 夜になって、彼女の足が腫れてきた。
 間違い無い、骨折だ。
 それだけじゃない、左半身の自由が効かないと言っている。
 重症かもしれない。
 俺は出来る限りの手を打ち、彼女の力になってやった。
 午前中の小雨は、午後になって再び嵐になった。
 これでは救助隊も山には入れない。
 まずい。

******6日目******

 食料が底を突いた。
 相変わらず、外は大荒れだ。
 二人は無言で、テントの中にいるしかない。
 気が狂いそうだ。
 一美の足の腫れはやや引いた。
 僅かだが、左半身も動かせるようになっているようだ。
 俺は昨日から、何度も彼女に謝った。
 泣きたくなるくらい申し訳無かった。
 出来るなら、彼女と替わってやりたかった。
 そこまで彼女を愛している自分を発見して俺は驚いたが、それは言わないでおく。
 俺が謝る度、彼女は優しく微笑んで俺を許そうとしてくれた。
 そんな彼女がたまらなく愛しかった。
 その思いだけが俺達を支えていた。

******7日目******

 相変わらず嵐だ。
 俺はその中で、必死に食料になりそうなものを集めてきた。
 二人とも疲労はピークだ。
 まして満足に排泄さえ出来ないのだ。
 尤も、入れる物すらないのだが。
 彼女は疲労を感じている上、怪我の治癒の為もあって、口も利かずに横たわっている。
 そんな彼女を見て、俺は彼女と出会った時からのことを思い出している。
 もう10年前、始めて出会った時から俺は彼女に惹かれていた。
 彼女の生き生きとした表情や仕草、ものの考え方を眩しく思った。
 俺は間違い無く彼女を愛していることを、改めて発見した。
 だが、彼女はどうだろうか。
 彼女は俺を受け入れてくれた。
 だが、「愛している」という言葉を俺は聞いたことは無い。
 そんなものは無用だと思っていたからだ。
 果たしてそうだろうか?
 ひょっとしたら、彼女は俺を愛していないんじゃないだろうか?

******8日目******

 まだ嵐が続いている。
 俺達は限界だった。
 肉体はすっかり力を失っている。
 喋ることさえ疲労が伴う。
 僅かに2、3言だけを交わし、今日の会話は終わろうとしている。
 ・・・これが愛し合っているもの同士の会話だろうか?
 寂しい。
 俺は彼女をこんなにも愛しているというのに。
 彼女は、俺と会話することを避けているみたいだ。
 一美は俺を愛していない。
 俺を愛していない。
 愛していない。
 そんなのは嫌だ。
 一美は俺のものだ。

******9日目******

 嵐は収まる気配も無い。
 俺はこの嵐の中、ずっと考えている。
 もう、考えることしかすることが無い。
 彼女は俺を愛していない。
 でも、そうだろうか?
 今まであんなに楽しい時を過ごしてきたことが、全て幻想だったとでも言うのだろうか?
 違う、そんな筈は無い。
 確かめる方法は一つだけある。
 彼女が俺を受け入れてくれれば、それは愛しているということになる筈だ。
 俺はゆっくりと彼女の方に手を置いた。
 彼女の体が、ぴくりと震える。
 そのまま俺は、有無を言わさずに彼女の唇を塞ぐ。
 彼女は一瞬抵抗しようとしたが、すぐに舌を絡めてきた。
 それはいつもよりも遥かに激しい、獣のような情交だった。
 俺は劣情の波に飲みこまれ、何度も激しく沸騰するものを彼女の中に吐き出した。
 彼女も野獣のような唸り声を上げ、幾度と無く絶頂を迎える。
 貪り合い、食らい尽くすような交わりだった。
 疲労の限界を超えていた身体の、どこにこんな力が残っていたのかと言うほど、俺達は激しく交わった。
 何度も何度も繰り返し交わった。
 やがて最後の精気も尽きて、俺達は重なり合ったまま深い眠りに落ちた。

******10日目******

 嵐だ。
 まだ俺達を苦しめるつもりらしい。
 どこで間違ったのだろう。
 どうしてこうなってしまったのだろうか。
 迫り来る「死」の足音を聞きながら、俺は繰り返し思っている。
 一美は最早、呼吸すらまばらだ。
 二人とももう長くない。
 俺達はそれをあっさりと受け入れていた。
 最後に、どうしてこうなったのか、それだけ知っておきたかった。
 なにをミスしたのだろうか。
 どこで取り返しのつかないことになったのだろうか。
 思い出せない。
 何も思い出せなかった。
 俺は考えるのをやめた。
 だが、そのつもりでも思考は勝手に頭の中に涌き出てくる。
 死ぬのは仕方ない。
 こうなったらもう運命だ。
 一美と一緒だ、寂しくはない。
 けど、俺はまだ完全に満足していないんだ。
 俺は彼女から「あの」言葉を聞いていない。
 彼女の全てを俺のものにしていないんだ。
 俺は疲れ切った身体を引き摺って、一美を抱きしめながら言った。
「・・・一美、愛してる・・・お前の・・・全てを俺にくれないか・・・」
 一美は虚ろな瞳で俺を見つめた。
 ガラスのような、精気のない瞳。
 しかし、彼女は弱々しく頷き、かすかに笑った。
「あい・・・してる・・・わ・・・」
 彼女は囁くように言った。
 この瞬間、俺は始めて満足することが出来た。
 彼女は俺に全てを捧げてくれた。
 もう、何も怖くない。
 彼女は俺に命までくれたんだ。
 俺も確かに彼女を愛している。
 そう、彼女の全てを、その全てを愛しているんだ。
 愛している。
 彼女を愛している。
 俺は彼女を愛している。
 彼女の全ては俺のものだ。
 その肌も、温もりも血も、肉も骨も命さえも俺のものだ。
 彼女は俺のものだ。
 俺のものだ。
 俺だけが彼女の全てを自由に出来るんだ。
 彼女は俺のものだ。
 彼女は俺のものだ。
 彼女は俺のものだ。
 彼女は俺のものだ。
 彼女は俺のものだ。
 彼女は俺のものだ。
 彼女の全ては俺のものだ・・・・・・。
 俺の片手は、ポケットの中に納まった、小さなナイフを握っていた・・・・・・。

******11日目******

 晴れている。
 嘘のように晴れている。
 俺は横たわっている一美を見た。
 彼女は動こうとはしない。
 ああ、そうか。
 疲れて眠っているんだね、一美。
 昨日は、俺に全てを捧げてくれてんだから。

 遠くから人の声がした。
 それは徐々に近づいてきて、やがて俺達のテントの前で止まった。
 やがてテントは乱暴に崩されていく。
 連日の嵐で、すっかりテントの形が歪んでしまっていたようだ。
「大丈夫か!?」
「二人とも、生きているか!?」
 口々に救助隊の面々が騒ぎ立てる。
 俺は返事もせずに、黙ってそれを聞いている。
「しっかりしろ、二人とも!!」
 ついにテントは完全に崩され、救助隊の一人が顔を覗かせた。
 その身体が硬直した。
 一瞬の間を置いて、彼は小刻みに震え始めた。
 ・・・何を恐れているんだ? 彼は。
 俺は彼に自分が無事なことを示すために笑いかけた。
 次の瞬間。
「ひ、ひ、人食いだ〜〜〜〜〜!!」
 絶叫が響き渡る。
 ・・・人食い?
 なんて人聞きの悪いことを言うんだ、こいつは。
 彼女は俺に全てを捧げてくれただけだ。
 俺はそれを受け止めたに過ぎないのに。
 テントの外が騒がしくなり、大勢の救助退院が顔を突っ込んできた。
 みな一様に、恐怖と嫌悪を浮かべている。
 こいつらに何が分かるんだ。
 俺は彼女を愛している。
 彼女は俺を愛している。
 それだけのことじゃないか。
 真っ赤に染まった片手を上げて、俺は彼らの前で指を一本立て、それを横に振った。
「彼女は・・・俺だけの・・・ものだ・・・」



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 FIN 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


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ここから戦略的撤退を行う