〜天狗の爪〜
幸・ザ・ボス
男は全てを失った。
手に入れてきたもの、その全てが、今や彼の手元から失われていた。
それは、彼の犯した罪のせいだったのだろうか。
砕かれて散らばった、硬い石の欠片を見下ろしながら、男は失った過去を思い出そうとしていた。
少年は身体を動かすよりも、本を読んでいるほうが好きだった。
体力よりも、理性を使う方が性に合っていた。
他の少年達が彼を遊びに誘っても、彼は興味なさそうに、生返事をするだけだった。
徒競走では、彼はいつも最下位だった。
体育の成績は、いつも最低だった。
それでも彼は、そんなことを気にしたことは一度も無かった。
彼には夢があった。
学者になること。
学者になって、未知の世界を探求していくこと。
その夢の前では、身体を使うことなど何の意味も無かった。
彼の父は学者だった。
その父を、彼は尊敬していた。
誇りに思っていた。
未知の世界に敢然と挑む姿に、感動すら覚えていた。
憧れて、せめて影の一端でも踏めるようになりたいと思っていた。
だから、彼は学者になりたかった。
少年は、夢と共に生きていたのだ。
彼の父は、健康状態があまり良くない男であった。
季節の変わり目には必ず風邪を引き、流行の病には必ずかかった。
父は医者から、定期的な散歩をすすめられていた。
太陽の光を浴びて歩くことは、身体を強くする効果があるという。
父はそのすすめに従った。
少年が、小学校の一年生になった年、ある春の日曜日のことだった。
父の散歩に付き合って、少年は、春の陽射しの中を歩いていた。
まだ冬の気配が残る、少し冷たい風を身体に感じながら、少年は父の背中を追って歩いていく。父のその背中は、少年にとっては広く、強いものに見えていた。
新興住宅地に住んでいる彼らは、まだ開発されていない山道を歩いていた。
それほどきつくない傾斜だったが、父は苦しそうだった。
少年は父の広い背中を後ろから押して、その登坂を助けた。それが、今、少年に出来る、唯一の父への手助けだった。
山道を登り切ると、そこはちょっとした別世界であった。
春の太陽が草花を照らし、昆虫達が所狭しと生命の歌を謳歌している。
命の息吹だった。
世界は命に満ち溢れていた。
父は、いつもよりも嬉しそうな顔をしていた。
「いいか、世界はこんなにも美しいんだぞ。お前には、この美しさが判る大人になって欲しいな。」
そう言って、父は大きな掌で、少年の頭を撫でた。
少年は嬉しそうに笑って、父に約束した。
この美しさを忘れない人間になる、と。
父は優しく微笑んで、もう一度少年の頭を撫でた。
その笑顔を少年は、一生忘れることは無いだろう、と確信していた。
帰り道、父は来たときと違う道を通って山を降りた。
少年は父の背中を追って、山道を下っていく。
道が開けた。
今までの土の地面ではなく、砂利が敷かれた道になった。
道端に、無人のショベルカーが止まっている。
道の両脇には、排水用の側溝が走っている。
少年は、何故とも無く、物悲しい気持ちになった。
こんな所にまで、人の手がはいっているのかと思うと、不意に哀しくなった。
ショベルカーから目を逸らしたとき、少年の視界一杯に、それは広がっていた。
神秘的で、幻想的な光景だった。
手足が小さく振るえていた。
尾低骨から頭頂部まで、電撃が脊髄を走り抜けた。
軽い眩暈が、少年を襲った。
削り取られた山肌一面に、見たことも無い貝殻が散りばめられていた。
大きいものから小さいものまで、その数は、夜空の星よりも多く感じられた。
少年の知識を、その光景は大きく逸脱していた。
沢山の本を読破してきた少年にも判らない、見たことも無い貝殻たち。
少年はその光景に、心を奪われていた。
少年がついてこないことに気が付いた父が、ふと振りかえった。
「どうしたんだ?」
父は少年に訊ねた。
少年は、目の前の光景から目を離さず、父に訊いた。
「父さん・・・、これ・・・、なに?」
その言葉で、父は少年が立ち止まったまま動かない理由を理解した。
「ああ、これか。これはな、化石だよ。」
「かせ・・・き?」
「そうだ。ずっとずっと昔、父さんも、父さんの父さんも、その父さんもまだ生まれていない昔、それよりももっともっと昔に生きていた生物が、こうして石になったものが化石だ。」
父の言葉の意味は、少年には良く理解出来なかったが、目の前に広がる光景が、人間の営みとは比較にならないほど、荘厳なものであることだけは判った。
人間がこの世に現れるよりも、遥か昔から続いてきた命の繋がりに、少年は感動していた。
少年の瞳には、涙が浮かんでいた。
地球という劇場の中で繰り広げられる巨大な生命のオペラに、少年は圧倒され、完全に魅了されていた。
そんな少年の頭を、父は優しく撫でていた。
この時、少年は始めて、自分の進むべき道を知った。
やがて時は流れ、少年は少年ではなくなり、青年へと成長した。
中学、高校を経て、彼は大学への進学を考える時期にさしかかった。
彼の成長に反比例するように、父の身体の衰えはひどくなっていった。
頼りなく、小さくなってしまった父を、それでも彼は尊敬し続けていた。
彼は知っていた。
父の掌は、あの当時から大きくはなかった。
父の背中は、あの当時から広くはなかった。
全て、彼の幻想に過ぎなかった。
父を大きく感じていたのは、彼が父を尊敬していたからだった。
ただ、それだけのことだった。
年をとって現実的な考え方が出来るようになった時、彼はその事に気付いていた。
それでも、彼は父を尊敬していた。
そしてそれは、彼の夢が変らない事をも示していた。
学者になる。
あの日、少年の時代に魅せられた光景。
あの光景は、決して忘れられない。
学者になって、幾星霜にも連なる生命の神秘に挑む。
彼はその為に、ずっと勉強してきた。
尊敬する父の為に、そして、自分の描いた夢の為に。
彼の夢は、もう夢ではなく、彼の生きる目的になっていた。
その事に、彼自身は気が付いてはいなかった。
彼自身が予測した通り、大学には、あっさりと入学できた。
それを待っていたかのように、父は息を引き取った。
彼には、物心ついたときから、母が居なかった。
一度父に尋ねたことはあったが、父は寂しそうに笑っただけだった。
そして今、彼は父を失った。
それでも、彼は立ち止まることはなかった。
哀しみを胸の内にしまい込むと、彼は猛然と勉強を始め、周りの連中を驚かせた。
大学の四年間、彼には友達と呼べる人物が一人もいなかった。
そんなことは、彼には気にならなかった。
孤独なほうが、彼にとっては都合が良かった。
人との付き合いに煩わされないぶんだけ、彼の勉強は進んだからだ。
周りの連中は彼を、「暗い」だとか、「付き合いが悪い」だとか、散々に非難していた。
幾人かは彼を心配してくれ、たまには人との付き合いも考えるようにすすめたが、彼は一向に耳をかそうとはしなかった。
彼の視界には、人間のことなど入ってはいなかった。
もっと壮大で、神秘的なものが彼の心を捉えていたのだ。
そして卒業が決まると、彼は大学院へと、当然のように進むことになった。
大学院の生活は、彼にとっては、夢のような日々であった。
研究に継ぐ研究、討論と発表、それが毎日のように続き、彼は至福のときを感じていた。
彼は、「考古学の権威」とも言われる、沢村教授のゼミへと入った。
長年の勉強の成果もあってか、ここで彼は頭角を現し、二年後には「考古学界期待の星」と囁かれるまでになった。
彼を一躍有名にしたのは、彼が書いた論文、「古生代の海洋生物の生態に関する考察」というものだった。 主に巻貝の生態に関して纏められたそれは、かつてない着眼点が議論を呼び、良い意味での問題作となったのである。
彼の才覚に目を付けた企業や、研究機関が彼を求めたが、彼はそれを断り、大学に残って研究を続けることを望んだ。
沢村教授は喜び、彼をドクターコースに推薦した。
彼はこうして、博士号を取得した。
大学という所は、決して政治的なものとは無縁ではない。
派閥もあれば、選挙に伴ういざこざもある。
やがて彼の周りにも、その影響が出始めた。
彼は助教授になっていた。
既にその地位は一介の研究者のものではなくなり、周囲に対する影響を考慮すべきものとなっていた。
だが彼にとって、そんなことはどうでも良いことだった。
彼は研究が出来ればよかった。
他の事など、どうなろうが知ったことではなかった。
やっと手に入れた研究機材や、独自の研究室がある今、彼にとっては、大学内の人事に関する政治的配慮など、何の価値も持ってはいなかった。
小学校の頃から人との付き合いを敬遠してきた彼は、益々偏屈な男として知れ渡っていくことになった。
暇さえあれば、講義を放り出して発掘作業に没頭する。
付き合いを無視して化石の研究に専念し、飲み会などというものには、全く興味を示さない。
いきおい、彼の評判は悪くなった。
自分勝手だという評判が立った。
それは、巡り巡って彼の耳にも入ってきたが、彼は一向に痛痒を感じなかった。
言いたい奴には、言わせておけば良い。
彼には、人間に対する興味は、欠片もなかった。
生命の織り成すドラマと、それを語ってくれる化石たちがあれば、彼には充分だった。
彼にとって人間とは、醜く、不完全で、理解し難い生物でしかなかった。地球上の生命体の中で、尤も意味がないものだった。
彼にとって、人間とは研究対象にはならないものだった。
だから、何の価値もなかった。
自分でさえ、そうだった。
たった一人、例外だった人間は、もうこの世にはいなかった。
彼は、その人のような、美しい命になりたかった。
それが彼の研究する理由だった。
美しい命を研究することで、彼自身も美しい命を得られる。
本気でそう信じていた。
かつて、世界はこんなにも美しい命に溢れていた。
だから、彼も美しくなりたかった。
彼は、時を経るにつれて、孤立していった。
「君、少し時間はあるかね。」
気の進まない講義のあと、彼は沢村教授に呼び止められた。
「なんですか。」
彼は露骨に表情を曇らせて、沢村教授を見た。
彼は、沢村教授が嫌いだった。
始めて見た時から、それは変らなかった。
政治的な匂いをぷんぷんさせ、学生や助手、助教授を取り巻きに従えて、自分の地位を固めることに専念する、およそ学者とは思えないこの男が、どうしても好きにはなれなかった。
表面的に見て、彼は沢村教授に恩がある立場だったが、それを返す義理はないと思っていた。
沢村教授の魂胆は分り切っていた。
学生の頃から優秀で聞こえた彼を手駒にしておけば、後でその名声に便乗出来るからだ。
沢村教授の名声と地位は、そうやって創られてきた虚像に過ぎない。
沢村教授は、彼の心理には気付かず、にこやかに笑っている。
その無神経さも、彼の嫌うところだった。
「今度、君に紹介したい人物が居てね。是非、君に会って欲しいんだ。」
不気味なほどの機嫌良さで、沢村教授は彼の肩に手を置きながら言った。
一瞬、置かれた手を払いのけようとする衝動に駆られたが、彼はそれを押さえ込んで、
「分りました。」
短く答えた。
「それで、いつにしますか。」
「うむ、今夜なのだが、空けておいてくれたまえ。」
勝手にそれだけを言って、沢村教授は去っていった。
彼は、一層沢村教授が嫌いになった。
今夜だって?
そんな急に言われたって、もしも先約があったらどうするつもりなんだ。
彼は唾を吐き捨ててやりたい衝動に駆られ、暫らく躊躇ったあと、それを実行した。
彼が引き合わされた人物とは、沢村教授の娘、冴子であった。
訳も分らず応対した彼であったが、それが沢村教授のしかけた見合い話だと判って、彼は唖然とし、継いで呆れ果てた。
要するに沢村教授としては、派閥に属さない彼を手駒に引き入れる為、最後の手段を使ってきたわけだ。
馬鹿馬鹿しくて笑いたくなるような展開だったが、彼はそれを受け入れた。
彼にとっては、妻の存在など空気以下のものでしかなく、研究の邪魔をされないのならそれで良かった。
それよりも、一刻もはやくこの場を去りたかった。
彼の研究室には、昨日発掘したばかりの、大型海洋生物のものと思われる脊髄の化石があり、それに対する研究を、少しでも早く始めたかったのである。
こうして彼は、妻帯者となることが決まった。
月日は流れ、彼は青年から壮年へと変っていた。
既に彼は教授となり、その名声は、考古学界では知らぬ者が無いほどになっていた。
沢村教授に見込まれた男、ということが、彼の名声を弥が上にも煽ったが、相変わらず彼にはどうでも良いことだった。
その沢村教授は野望を果たし、学部長から学長、そして学会長を経て、考古学界の頂点を極めた。
沢村教授の定年まであと三年、その後釜を巡って、学内では激しい争いが始まっていた。
彼はその争いから、遥か離れたところに身を置いていた。
妻はそれを責めた。
父の名を汚すのか、と言って責め立てた。
こいつも変った、と彼は思う。
結婚が決まり、二人が正式に夫婦になったとき、彼女は彼に、なにも邪魔はしないと誓った。
その誓いの通り、冴子は彼に対して、なにも干渉しようとはしなかった。
二人には、子供は居なかった。
彼には、これからも必要無かった。
冴子はそれを残念がったが、彼にとって、子供など研究の邪魔になるだけだった。
彼ら夫婦には、夜の生活すらなかった。
そんな行為は、彼にとっては時間の無駄だった。
冴子は、それに対してさえ文句を言わなかった。
彼が言わせなかったのだ。
発掘が決定し、二月も三月も家を空けても、冴子はなにも言わなかった。
それも、彼がなにも言わせなかったからだ。
だが、従順だった冴子が、学内選挙に際して、誓いを翻して彼に食って掛かった。
今まで約束を守ってきたのだから、そちらも約束を果たせ、とヒステリックに怒鳴り散らした。
彼には、冴子となにか約束をした覚えは無かった。
それを彼が口にすると、冴子は泣きながら怒り狂い、何の為に沢村教授の娘を妻にしたのか、考えたことは無いのか、と責め立てた。
つまり、彼が学長になって沢村教授の派閥を守り、教授の老後の生活を安定させろ、という訳らしい。
彼にとっては、甚だ迷惑な話だった。
第一、彼は沢村派に属した覚えは無かった。
適当に冴子をあしらうと、彼は寝室に閉じ篭った。
扉の向こう側からは、冴子が彼を、泣きながら罵る声が聞こえたが、彼にはなにも気にならなかった。
明日から、東北に発掘調査に出発することになる。
今のうちに眠って、体力を温存しておかなければならなかった。
淡い期待を胸に、彼は眠りの世界へと吸い込まれていった。
発掘作業と言うものは、見た目よりもかなりハードで、神経を使う作業である。
調査する地層を調べる為には、薄皮をはがしていくように地面を掘らなければならず、しかもその作業の大半は、人力で、スコップなどを使って行わなければならない。
勿論音波による探査機なども使用するが、ダイナマイトなどを併用して使うので、簡単に考えてしまうことは出来ない。
めぼしい化石がその地層に無ければ、精神的に受けるダメージは計り知れないものだし、あったらあったでそれを削り出す作業たるや、神経に鑢を掛けられているようなものである。
そうまでして、何故、発掘作業など行うのか。
それはひとえに、浪漫を求めるから、と言っても過言ではない。
そこに、人知を超えたなにかが眠っていると考えるだけでも、その作業を行う価値がある。
彼が狙いを定めたところは、彼が少年の頃、父と共に見たあの場所に、酷似していた。
胸の内に、懐かしい感覚が甦ってくる。
なにかが、ある。
ここには、なにかが、ある。
彼は半ば以上の確信を持って、発掘作業を開始した。
彼の直感は当っていた。
程なくして、音波探査機が何かの影を捉えたのだ。
それは、奇妙に湾曲した、十センチほどのものだ。
深さは、地下約三メートル。
この辺りの地層から見て、ジュラ紀後半から、白亜紀前半のものと推定された。
早速、大胆且つ慎重を期して、発掘作業が開始された。
対象になる化石の深度が判っている場合、始めから人力を使うのは無駄なことだ。
ある程度までは一気に掘り返し、そこから先を、人間がデリケートな作業で掘り返していくのだ。
ショベルカーが忙しく稼動し、土を排除してゆく。
誤差を考えて、二・五メートルほどまでを掘って、そこからは人力での作業が始まった。
彼の胸は、期待と不安とが入り混じった感情で、破裂しそうになっていた。
もしも彼の予測が正しければ、それは歴史的な発見になるかもしれないのだ。
作業は、思ったよりも難航した。
土が固く、人力では思うように掘り進めないのだ。
一月が経過して、まだ十五センチほどが残されている。
発掘作業と言うものは、一人で行うものではない。
アマチュアならいざ知らず、大学が主催すれば、学生も動員するし地元の人達にも協力を要請する。
それでも、苦戦が続く。
天候が安定しないのもいけなかった。
彼は、次第に焦燥に駆られ始めた。
残された時間は、あまり無かった。
あと二日で帰らねばならない。
彼が焦りを隠せずにいた時だった。
「教授!出ました!」
学生の嬉しそうな声が響いた。
彼は飛び上がるようにして立ち上がると、すかさず声のしたほうへと走った。
囲んでいる学生達を押し退けるようにしてそれを見ると、それは紛れも無く目的の化石だった。
彼は座り込むと、学生から刷毛を受け取って、化石の周りの土を慎重に払う。
それが全貌を現すと、周りの人垣から、驚嘆の呻き声があがる。
あとは化石本体を傷つけないように、下の部分の土ごとすくいだした。
同時に、一同のあいだに安堵と、達成感が広がった。
どの顔も笑顔がこぼれている。
一人の学生が、彼に質問した。
「先生、これは・・・。」
彼は化石を見つめたまま言った。
「天狗の爪、だよ。」
彼の脳裏に、懐かしい記憶が甦っていた。
少年の日、彼は父と共に、あの場所で立っていた。
そのとき、そこには、美しい命が乱舞していたのだ。
「いいかい。こういう所にはね、天狗の爪があるかもしれないよ。」
少年の頭を撫でながら、父は語りかけた。
「てんぐのつめ?」
「そうさ。天狗の爪だよ。」
長じるにつれ、彼は「天狗の爪」の正体を知った。
それは、まだ化石の事を知らなかった昔の人々が、その不思議な形状を指して言ったものだった。
主に歯の化石、それも肉食恐竜の歯を指して、そう呼ばれるのだ。
やっと・・・、やっと、出会えた。
少年の日からずっと夢にまで見た物が、今、彼の手の中にあった。
「先生。一体これは・・・。」
学生の一人が、遠慮がちに尋ねてくる。
恐らく、どんな恐竜の化石なのか、それを聞きたいのであろう。
「この形状と大きさから推測して、多分クロノサウルス。地球上最大の海洋性肉食恐竜のものだろう。時代的には、約一億から一億四千万年前、白亜紀前期のものだな。記憶が正しければ、日本近海には生息していなかったとされている筈だ。」
彼は興奮を隠しきれず、そう言った。
彼らしくもなく、饒舌になっていることが自覚された。
やっと出会った少年の憧れは、宝石よりも美しかった。
彼は飽きることなく、貴重なそれを見つめていた。
美しい命の欠片。
懐かしい、父との想い出。
掌の上の「天狗の爪」は、世界中の、どんな物にも勝る、彼だけの宝物だった。
長い発掘から帰ってくると、彼を待っていたのは、妻の激しい攻撃だった。
二月の間に、大学では学長選挙が行われ、その候補の中に彼はいなかったのだ。
勿論、彼は妻のことなど無視しようとしたが、この日の冴子は、今までとは明らかに違っていた。
沢村教授の任期中に行われる学長選挙は、あと一回だけである。
派閥を纏め上げ、沢村教授を擁護するには、今回の選挙に勝たなければ間に合わないことだった。
それが候補にも上がらないとは、一体どう言うことなのだ、と妻は責め立てた。
彼は憂鬱さを堪えて、その内幕を話してやった。
実のところ、学長選挙に彼を推薦する動きはあったのだ。
だが彼はその推薦を、いともあっさり断った。
学長になどなったら、研究に差し障りがあるのは、火を見るより明らかだった。
彼は冴子に向かって、学長はおろか、学部長になるのも御免被る、とはっきり断言した。
それを聞いた瞬間、冴子は真っ青になった。
暫らくの間呆然としていたが、それが過ぎると、冴子は口を極めて彼を罵倒し始めた。
なんと言われようが、彼は平気であった。
彼はずっと長い間そう言い続けていたのであり、それを信じなかった冴子が悪いのだと思っていた。
騒ぐ冴子が鬱陶しくなり、彼は寝室に引き取ろうとした。
だが、冴子は彼の後を追って来て寝室にまで入りこむと、更に彼を詰った。
そして半狂乱になった冴子は、彼の机の上にある化石のコレクションを手にとって、高々と振り被った。
それが何を目的としての行為か、彼は咄嗟に理解した。
「何をする、やめろ!」
叫ぶなり、彼は妻の頬を、思いきり殴りつけていた。
妻はもんどりうって後方へ倒れ、化石は辛うじて、床に叩き付けられる前に彼の手の中に落ちた。
彼はそれを慎重に見て、欠けた部分が無いことを確認すると、そっと机の上に戻した。
それから倒れている冴子を、冷ややかに見下ろして言った。
「いいか、これだけは言っておくぞ。僕に不満があるのなら、僕を責めればいい。けど、化石に手を出すのだけは許さないぞ。次にこんなことをしたら、今度はその程度じゃ済まないから、そう思っておけ。」
彼は当たり前のことを言った。
そう思っていた。
冴子は上半身だけを起こし、口元を押さえて彼を睨みつけた。
唇が切れて、血が出ていた。
当然だった。
彼は平手ではなく、拳で殴ったのだ。
冴子は、ゆっくりと口を開くと、憎悪を込めて言い放った。
「そう・・・。あなたがどんな人だか・・・、はっきり判ったわ・・・。そっちがそのつもりなら・・・、私にも考えがあるわ。もう、後悔しても遅いわよ。」
その目を見ているうちに、彼の中にも、妻に対する憎悪が芽生えてきた。
この女は、何を言っているのか。
始めから、僕は言ってきたじゃないか。
僕の研究を邪魔するな、と。
この女は一体、今まで何を聞いていたんだ。
そう思うと、自制心の全てが吹き飛んだ。
彼は怒りに任せて、冴子に向かって言った。
「なんだよ、その目は。そんなに僕が憎いなら、出て行けよ。止めないから、さっさと出て行けよ。僕は、これっぽっちも君を必要としていないんだからね、邪魔者がいなくなって、好都合だ。」
その言葉を聞き終わった瞬間、冴子の目から、大粒の涙が流れ出した。
身体を小さく振るえさせると、冴子はゆっくり立ちあがり、
「・・・そうさせて、もらうわ・・・。」
そう言い捨てて、寝室を出ていった。
彼はそれを確認すると、不機嫌にベッドに倒れこんだ。
極めて不愉快な気分だった。
連れ添った妻が、彼のことを理解していなかったのもそうだし、彼を、父のために利用しようとしていることも、不満に感じずにはいられなかった。
彼は気付いていなかった。
それが無意識の甘えである事に、彼は気付いていなかった。
人と付き合っていくということは、何かを与える代わりに何かを受け取り、何かを失う代わりに何かを求める、ということだった筈だ。
彼には、それが理解できなかった。
彼は、冴子から何かを受け取ったことが無かった。
冴子に、何かを与えたことも無かった。
一体、自分がなんのために結婚したのか、彼は理解できなかった。
不愉快な思考が頭の中に充満し、寝付けそうになかった。
彼は起き出して車の鍵を取ると、夜中の大学へと車を走らせた。
あそこなら、自分の研究室もある。
暫らくは、あそこで生活しても良いだろう。
兎に角、当分の間、妻の顔は見たくない。
それが、彼の結論だった。
彼が目覚めたのは、次の日の夕方だった。
ほぼ一日中、教授室のソファで眠っていたらしい。
目覚ましにコーヒーを淹れて飲むと、昨日の記憶がまざまざと甦ってきた。
流石に・・・、言い過ぎたかもしれないな。
冷静になって考えると、あそこまで言う必要は無かったように思える。
せめて「出て行け」だけにしておいても、よかった筈だ。
何も、面と向かって「必要ない」とか、「邪魔者」とか言うことはなかったかもしれない。
帰ったら、謝るか・・・。
まだ家にいるならの話だが。
彼は気を取り直すと、先日発見したばかりの「天狗の爪」を研究しようと決めた。
だが、それはここにはなかった。
あれは、ボックスごと家に置いて来たままだった。
どの途、彼は家に帰らなければならなかった。
大きく溜息をつくと、彼は家に向かって車を走らせた。
彼の目の前には、彼が一番望んでいなかった惨状が広がっていた。
机の上の化石は、一つもそこにはなかった。
それらは全て、粉々になって床の上に散らばっていた。
「天狗の爪」を収めていたボックスはこじ開けられ、蓋が歪んだ状態で転がっていた。
そして彼の宝物は・・・。
原型を留めないほどに破壊され尽くして、床の上に広がっていた。
床の上には、大きな、丈夫そうな金槌が転がっていた。
冴子の仕業であることは一目瞭然だったが、不思議と憎しみは湧いてこなかった。
むしろ、これは当然の結末であるような気がした。
人間を憎んできた彼が、当然返済すべき、それは負債であった。
生まれてから今日まで、彼はずっと人間を醜いものだと思ってきた。
だが、彼は気付かないでいたことがあった。
人間も、やはり命なのだ。
その事に気付かず、ずっと目を逸らしつづけてきたことが、この結末になったのだ。
彼が人間を憎めば憎むほど、彼もまた、人間から憎まれていった。
それは、彼が望む美しい命の姿ではなかった。
彼は、誰よりも醜かった。
その事に、彼はたった今、始めて気が付いた。
彼の唇が歪んだ。
自嘲だった。
それ以外に、彼に出来ることはなかった。
命は、互いに何かを与え合うからこそ美しいのだ。
その事に気がついたとき、彼には、与える物も、与えてくれる物も、与えるべき相手も無くなっていた。
己のことだけを保存しようとする命は、醜いものでしかなかった。
それは、彼のことを指していた。
粉々になった「天狗の爪」は、彼の少年時代からの夢ばかりか、今まで生きてきた彼自身を否定し、打ち砕いたのだ。
彼は全てを失った。
信じていたもの、その全てが、今や彼の手元から失われていた。
それは、彼の犯してきた罪のせいだった。
粉々に砕かれた、硬い石の欠片を見下ろしながら、彼はいつまでも、その場に佇んでいるだけだった。
〜〜〜FIN〜〜〜