〜〜野獣・退魔師の憂鬱〜〜

幸・ザ・ボス


 暗闇のカーテンの中、重たい雨音が連続的に響いている。
 閃光が闇を切り裂き、刹那、雷鳴が轟き渡る。
 九月の枯葉を真上から雨粒が叩き付け、異様な協奏曲を奏でていた。
 その中を、「そいつ」はゆっくりと歩いてくる。
 荒い呼吸と血走った瞳が、闇の中を一定の速度で移動していた。
 森の木陰から光が漏れている。
 「そいつ」はその光に向かって、一歩ずつ確実に近づいていく。
 やがて、鬱蒼とした森は終わりを告げ、目の前には一軒の人家が現れた。
 それを確認して、そして「そいつ」はにやりと笑った。

「昨夜未明、神奈川県清川村で、一家6人が惨殺されるという事件がありました。被害者は・・・。」
 プツン、と音がして、テレビのスイッチが切れる。
「嫌ねえ、朝っぱらから殺伐とした・・・。」
 ぶつぶつと文句を言いながら、佐々木和子は朝食の用意を中断してテレビのリモコンを机の上に置いた。
「あなた、昨日は清川村へ行ってらしたんでしょ?」
「・・・ああ。」
 夫の佐々木政治は気の無い返事を返す。
 ぼんやりと考え事をするように、ただコーヒーカップを宙に浮かせているだけだ。
「何か知ってます?」
 妻は卵焼きをフライパンで炒めながら、夫に背を向けたままで訊いた。
 香ばしい匂いが漂い、部屋中を覆う。
 やや焦げ目がついたそれは、いかにも食欲をそそりそうな出来だった。
「・・・・・・」
 夫の返事は無かった。
 和子はちらりと夫のほうを振り返り、それから一つ吐息を付いた。
 いつもの事である。
 何事にも無気力で、無関心な夫。
 こんな関係を、二人は17年間も続けてきた。
 妻は、夫がいつも無気力な訳ではないことを知っている。
 建設会社の重役である夫は、会社に行けば、古い言い方ながらも「仕事の鬼」とも呼ばれている事を、和子は知っているのだ。
 その反動のように、夫は家に帰れば、無気力で無関心な男に変貌する。
 和子は、夫と結婚してからの記憶を振り返るのを止め、彼女の仕事を片付ける事に専念する。
 皿を並べ、朝食の用意をテーブルの上に揃えると、廊下に出て、階段の下から二階へ向かって叫ぶ。
「冬実、いつまで寝てるの!朝ご飯よ!」
 ・・・平凡ながらも、平和な朝の時間が過ぎていく。

「ああ、ヤバイヤバイ、遅刻しちゃうよ!」
「のんびりと寝てるからよ!もう、来年からは高校生なんだから、少しはしっかりしなさい!」
「分かってるって。その証拠に、ちゃんと進学校に推薦で入れたでしょ。」
「それとこれとは別よ。全く、普段の態度がいいかげんじゃどうしようもないじゃない。少しは・・・。」
「あ、ゴメーン。遅刻しちゃうから、行ってきまーす。」
 そう言い置いて、冬実は玄関のドアを開けて、道路へと飛び出した。
「車に気をつけなさいよー!」
 和子がその後姿に叫んだ。
 前を向いたまま、片手を振って駆けて行く姿が見えなくなると、和子は溜息を漏らしながら家に入った。
「全くもう、幾つになっても・・・。」
「・・・年頃の娘は難しいもんさ。」
 政治は、相変わらず無気力に言った。
 朝食は綺麗に片付いている。
 口の周りを拭うと、政治は椅子から立ちあがって鞄を取った。
「あら、早いのね。まだ時間があるんじゃないですか?」
「いや。今日も清川だからな。早めに行かないと、現場の指揮が取れなくなる。」
 政治はそう言って廊下に出ると、そこで立ち止まって振り返りながら和子に言った。
「ああ、今日は多分帰れない。向こうに泊まると思う。先に寝ててくれ。」

 「清川ダム建設断固反対」
 「出て行け!!帝国建設!!」
 横断幕が張られ、その下で作業服を着た男達と、地元の住民とが睨み合いを続けている。
「作業を再開します。そこをどいてください。」
 作業服を着た男達が、殺気立った視線を隠そうともせずにそう言った。
 地元住民達の抵抗運動のため、ダム建設の作業は遅々として進まず、彼らは焦燥感に駆られている。
 だが、住民達は無言のままで彼らを睨みつけ、誰一人としてそこを動こうとはしない。
 緊張感が水位を増し、両者の間に険悪な空気が流れる。
「どいてください。そこに皆さんがいる限り、安全は保障できませんよ。」
 作業員の一人が、脅すようにそう言った。
 だが、住民達はそれを聞いて、怯えるどころか、冷笑を浮かべた。
「・・・何が可笑しいんだよ。」
 ついに、若い作業員の一人が忍耐の限度を超えた。低い、怒りを込めた声で住民達に言う。
「やってみろよ。この人殺し。」
 住民の中に、嘲笑うような声でそう言う者がいた。
 作業員達の顔色が、一瞬で変わった。
 住民達はさらに煽った。
「ダム建設のためなら、地元の住民を謀殺するのも仕事のうちかい。」
「大したお仕事だな、おい。」
 住民達は次々と嘲笑を浴びせたが、その瞳は決して笑っていない。
 ここ一週間で二つの家族を惨殺されるという事件が起こっており、そのいずれもが建設反対派なのだ。
 彼等が神経過敏になるのも尤もであった。
 まして昨日も一件、惨殺事件があったばかりだ。
 住民達が殺気立つのも当たり前の事である。
「・・・我々が犯人だって言いたいのか。」
 作業員の一人が、目を血走らせて言った。
 身に覚えのない中傷を受けて、怒りが沸騰している。
「他に誰がいるんだよ?」
「お前ら以外に、得する奴なんかいねえだろうが!」
「この人殺しども、さっさと帰りやがれ!」
 住民達が声を揃えて罵声を浴びせたとき、作業員達の怒りも頂点に達した。
「この野郎!大人しくしてれば付け上がりやがって!」
 一斉に作業員達が地元住民に襲い掛かった。
 だが、住民達は一切怯まなかった。
 元々喧嘩腰で抵抗しているのだ。数も違う。その上、彼らには「故郷を守る」という旗印があった。
 たちまち辺りは怒号と喧騒に溢れ返り、激しい乱闘が繰り広げられる。
 作業員に住民が襲い掛かり、ヘルメットの上から素手で殴りかかる。
 作業員が腰に下げたトランシーバーを武器に、住民をぶん殴る。
 その時だった。
「やめんか!!馬鹿者ども!!」
 怒声が響き渡り、住民達も作業員も、その態勢のままで動きを止めた。
 怒声の主を、揃って見る。
 佐々木政治が、仁王立ちに立っていた。
 怒りに、形相が険しい。
 作業員達が、たちまちのうちに飛び退いて、一斉に整列した。
 住民達も、気圧されてか、動こうとはしなかった。
 政治はゆっくり歩いてくると、両者の真中に割って入る。
 作業員達を睨みつけると、睨み付けられた方は視線を落とした。
「・・・お前ら、あとでゆっくり話を聞かせてもらうからな。」
 低い声で政治は言い捨てると、今度は住民達に視線を向ける。
「部下が失礼致しました。後で良く言って聞かせますから、ここは一つお許し頂きたい。」
 政治はそう言って、深々と頭を下げた。
 住民達は互いに顔を見合わせた。
 それから、一人が進み出て、
「ま、まあ、俺等も熱くなりすぎたよ。顔を上げてくれ、佐々木さん。」
 その一言で、政治が住民達にも大きな影響力を持っている事が分かる。
「いや、誠に申し訳ありません。部下の不始末は私の不始末です。この通り、お詫び致します。」
 政治は、さらに深く頭を下げる。
「い、いや、良いんだ、佐々木さん。」
 住民達のほうが、返って恐縮している。
 不思議な光景であった。
 政治は顔を上げると、
「皆様の補償の方は、現在、本社の方で前向きに検討中との報告を受けています。私が責任を持って皆様の新しい生活を提供するよう、本社を説得致します。今回の不始末も含め万全の体制で保証致しますので、どうか皆さん、ダム建設にご理解を頂けませんか。」
 真摯な光が政治の瞳に宿る。
 政治は、人間、腹を割って話し合えば必ず分かり合える筈だと思っている。
 その誠実な態度が、地元住民にも一目置かれる理由であった。
 だが。
「そんな二枚舌引っかかるかい!」
 その声が響くと同時に、初老の男が政治の前に進み出た。
 片目の周りが青黒く張れ上がり、唇が切れている。着ている衣服も、あちこちが破れてボロボロになっている。先ほどの乱闘の結果である事は明らかだった。
「・・・あんた、責任を取るといったな。」
 肩で息をしながら、初老の男は言った。まだ乱闘の興奮が冷めないらしい。
「はい。申し上げました。」
 政治は落ち着いて答える。
「よし、良く言った。ならここで死ね。」
 その言葉は、政治の心の中に雷鳴のように轟き渡った。
 その場にいる全員の表情が、一瞬のうちに漂白された。
 時間が止まった。
 住民達までもが、声を失って立ち尽くした。
 音が止む。
 世界が色を失った中で、初老の男の荒い息遣いだけが続いている。
 政治は、始めて知った。
 自分が背負っているものの重さを。
 自分は、事を軽く見すぎていた。
 政治は、漠然とそんな事を考えた。
 彼等住民にとって、それは紛れもない本心なのだ。
 政治は、住民達の新たな生活を保証してやれれば、事はそれで足りると考えていた。
 だが、現実はそれで済むような事ではないのだ。
 彼等の生活に勝手に闖入し、それを「公共の利益」と称して奪おうとしている。それこそが、現在の自分の立場なのだ。
 彼等には、この土地に根付いて生きてきた長い時間がある。
 それを破壊する権利は、彼には無い筈だった。
 政治は、血の気の引いた表情のままそこに立ち尽くすしか出来ない。
「・・・どうした、早く死なんか!!」
 初老の男は、激情に身を震わせて怒鳴った。
「・・・・・・」
 政治は、無言で立ち尽くす。
 どう行動すれば良いのか、どんな表情をすれば良いのか、どんな言葉が必要なのか、政治には分からなかった。
「・・・死ねんのか。なら、わしが殺してやる!!」
 そう言うなり、初老の男は政治に飛びかかり、地面に引き倒して首を締め上げた。
 帯電していた空気が、一気に弾けた。
「や、やめろ石塚!」
 先に動いたのは住民達だった。
 政治に馬乗りになった石塚を引き剥がそうと掴み掛かるが、石塚は物凄い力で政治を締め上げており、容易に離れようとしない。
 一瞬遅れて、作業員達も動いた。
 数人掛りで石塚を引き剥がし、羽交い締めにする。
「離せ!離さんかア!!」
 羽交い締めにされながらも、石塚は暴れまわった。
 政治は、乱れた身形のまま、それを直そうともせずにのろのろと立ち上がった。作業員達が、その手を取って立ち上がるのを助けたが、政治の体が小さく震えている事に気づき、愕然とした。
 彼等にとっては、政治は「おっかないおっさん」であると同時に、頼り甲斐のある上司でもあった。
 どんな難局にあっても決して狼狽したりせず、的確な指示を出しては彼等を助けてきた。
 怒られる事もしばしばではあったが、普段は気さくで、面倒見の良い、優しい上司だった。
 生きてきた時間を、そのまま経験として生かせる人物として、彼等は政治を尊敬し、全幅の信頼を置いていた。
 だが、今彼等の目の前にいる政治は、薄汚れた初老の、何の価値も無いような男に圧倒され、付きつけられた命題の前に膝を屈しそうになる、頼りない中年の男に過ぎない。
 その事実は、作業員達の心に涼しすぎる風となって吹き渡った。
 石塚は、立ち上がった政治を、焼き殺さんばかりの視線で睨みつけながら等怒鳴った。
「死ねんのなら、軽々しく責任を取るなどとぬかすな、この臆病者!わしわなぁ、貴様が生まれる前からこの土地で、ご先祖様の魂を祭って生きてきたんだ!!わしの親父も、その親父も、そうやってずっとここで生きて、そして死んだんだ!!わしの女房もここで死んだ!!ここには、今までに死んだ者の魂がまだ生きているんだ!!その重さが、貴様には分かるか!?」
 叫ぶ石塚は、もはや涙声だった。
 弾劾の罵声は、既に怒りを通り越して哀しみへと変化している。
 政治は、それを真っ白な表情で聞いているしか出来なかった。
 自分には、何も言う資格が無いことを、彼は知っていた。
 石塚の糾弾は続いた。
「わしらの土地を返せ!!死んだ者の魂を返せ!!貴様一人の命で贖えないほど重い歴史を刻んだこの土地を返せ!!それなのに、どの面下げてのうのうと生きて責任を取るつもりだ、この青二才!!わしらの生きてきた時代を汚して、何が楽しい!!何が公共の利益だ!!わしらの土地を返せええ!!」
 大粒の涙と鼻水を垂れ流しながら、石塚は怒鳴りつづけた。
 誰も、そんな石塚を笑おうとはしない。
「・・・つれてけ。」
 住民のリーダー格の男が、吐息混じりに指示した。
 石塚はまだ何かを叫んでいたが、引き摺られるようにしてその場から連れ去られていった。
 それを確認するまで眺めやってから、リーダー格の男は政治に向き直った。
「失礼しました、佐々木さん。ですが、石塚の言った事は、我々の心情を代弁することだという事を、どうか忘れないで頂きたい。」
 政治は、無言で頷く。
 反射的なものであって、その言葉から何かを感得したからではなかった。
 そんな余裕は、今の政治にはなかった。
 受けた衝撃が巨大過ぎて、政治の感覚は死んでいたのだ。
「今日のところは我々も引き上げましょう。ですが我々の考えている事も、是非ご一考頂きたいですな。」
 そう言って、リーダー格の男は住民達を纏め上げ、ぬかるんだ山道を引き返して行った。
「・・・・・・・」
 政治は、それをぼんやりと眺めながら、その場に立っているだけだった。
 石塚に締め上げられた喉が痛んだ。
 身体中が泥に汚れ、髪は乱れ、痣があちらこちらに出来ていたが、そのどれよりも心が痛かった。
 いや、痛いと思っているだけかもしれない。
 既に、政治は自分の感覚が麻痺している事すら気が付かなかった。
「主任・・・。」
 作業員の一人が、恐る恐る彼に声をかけた。
 指示を待っているようだった。
「・・・今日は、もう、作業は、中止だ・・・。」
 政治はやっとそれだけを搾り出すように言って、部下たちの反応も確認しないうちに、ふらつく足取りで作業小屋へと歩み去っていった。
 作業員達は、そんな彼の後姿を、呆然と眺めているしかなかった。

 その日は午後から急激に天気が崩れ始めた。
 鉛色の低い空から嫌らしい小雨が降り始めてから、本降りになるまで3分とかからなかった。
 夕闇が辺りを押し包む頃には、昨日を上回る土砂降りになった。
 山奥に閑散と建っている清川村の家屋に、黄色い燈火が灯っている。
 自然の光景が八割を閉める中で、それだけが人工的なものの存在を証明していた。
 暗黒といっても良い猛悪な暗闇が、山肌から家屋に襲い掛かっている。
 重厚な、木々の葉を叩く雨音が響き渡る以外に、そこには音は無かった。
 人間達は、そこでは自然と共存しているのではなく、自然に怯え、すがって生きていた。
 夜は影に怯え、昼の光だけを頼りにして、お互いを守るように寄り集まって生きていた。
 人間は小さく、卑小な存在でしかなかった。
 だが、それでも彼の先祖は、ここに骨を埋め、生きてきたのだ。
 怯え、苦しみ、それでもここで生きていく事を選んできたのだ。
 その土地を、どうして渡せるものか。
 彼は、仏壇を前にして正座したまま、ずっとそれだけを考えていた。
 遺影が飾ってあった。
 昨年他界した、妻の遺影だ。
 彼女の写真を見て、彼は最後の一人になっても戦う事を誓った。
 豪雨が雨戸を叩く音が、静寂の支配する部屋の中に響く。
 何時間も前から、彼はその音だけを聞いていた。

 政治は打ちのめされていた。
 自分の思慮の足りなさが住民達を追い詰めていた事を思い知らされ、自分のやって来た事が、所詮は理想論を振り翳すだけの幼稚な交渉術に過ぎない事を思い知らされていた。
 無性に酒が飲みたかった。
 何も分かっていなかった自分を認めたくなくて、彼は酔いつぶれてしまいたかった。
 そして彼はそれを実行した。
 ホテルの彼の部屋には、幾つものの酒瓶が転がっている。
 政治は曇った視界の中で、震える手をタンブラーに伸ばした。
 それはタンブラーを掴み損ね、それをテーブルの上に倒した。
 手にアルコールがかかる感触を、政治は感じた。
 それをぼんやり眺めながら、政治は別のことを考えている。
 彼はずっと住民たちに「ダムが出来る事で多くの人々が利益を得る」という事を説いてきた。
 政治は、多くの人々が得る利益の為に、彼等はきっと判ってくれると思っていた。
 心を開いて語り合えば、きっと分かり合える筈だと思っていた。
 政治の抱いている理想を、彼等なりに理解し、最後には協力してくれるはずだと信じていた。
 多くの人々に利益をもたらしてくれる彼等に、政治は最大限の保証をしてやりたいと思っていた。
 そうやって、最終的には皆が幸福になれると信じていた。
 住民達にしても、人里離れた土地で苦しい暮らしをしなくても良くなる。
 そしてより多くの人が、豊かな生活を得ることが出来る。
 政治はそれを信じて、この仕事に全てを賭けていた。
 だが彼等にとっては、政治は自分の住んでいる土地を奪いに来た侵略者であった。
 政治がいくら条理を尽くして説いたつもりでも、それはお為ごかしにしかならない。
 住民達にとっては、侵略者の勝手な理屈に過ぎないのだ。
 その事を思い知らされた以上、政治は、何もかもが分からなくなっていた。
 いつしか、酒精が、彼を眠りへと誘っていった。
 椅子に凭れたまま、政治は寝息を立てていた。

 悪夢を見ている。
 政治に何者かが、闇の中から語りかけてくる夢だ。
 その正体は、政治には分からない。
「・・・ゴマカスコトハナイゾ。」
 政治は答えた。
「何を・・・誤魔化しているんだ・・・?」
 声が答えてくる。
 地の底から響くような、重い、粘液質な声だった。
「・・・ジブンノコトダ。ワカルダロウ?」
「・・・分からない・・・。」
「・・・ジャマナノダロウ?ヤツラガ。」
「邪魔?奴等?」
「ソウダ。アノロウジンタチダ。オマエノリソウヲジャマスルヤツラダヨ。クックック・・・。」
 声が笑った。
 咽だけで笑うような、肺の中から空気を漏らす音だけで笑うような、不快感を煽る笑い声。
「イナクナレバヨイトオモッテイルノダロウ?」
「違う・・・。」
「クックック。オレハシッテイルゾ、オマエノホンシンヲナァ・・・。」
「私の・・・、本心・・・。」
「ソウダ。イツモノヨウニトキハナテ・・・。」
「いつもの・・・ように・・・。」
 政治の意識が揺れた。
 軽い浮遊感が政治を襲い、井戸の底に落下していくような感覚が彼を包んでいく。

 その音がしたのは、夜も更けた頃だった。
 常人には捉えられない音、ほんの僅かな、木材が軋む音だった。
 彼の、自然の中で鍛え抜かれた鋭い聴覚は、彼の眠りを覚ますのに充分な情報を与えた。
 彼は静かに上半身を起こした。
 それから、物音をたてないように、ゆっくりと有事のために使う薪割り用の斧を手に取る。
 その態勢のまま、しばらく動かない。
 寝起きでまだ感覚が完全には目覚めてはいないが、経験が彼に動く事を躊躇わせていた。
 こういう時に、下手に動くべきではなかった。
 彼はまず、全ての感覚が目覚めるのを待った。
 相変わらず、雨戸を叩く雨の音が響いている。
 全ての燈火を消した家の中は、漆黒が支配する、閉鎖された空間だった。
 空気が動いていない。
 自分の呼吸音が、部屋中に響き渡っている。
 何もせず、ただ待っている時間が、彼の中に少しずつ恐怖感を育てていく。
 これが、ただの賊か何かであれば、彼は恐れない。
 不気味なほどの気配の無さが、彼を返って不安にさせていた。
 ただの賊などではありえない。
 それどころか、人間であるかさえ怪しい。
 かつて無い経験が、彼を捉えていた。
 彼は、自分が目覚めた原因となった音が、幻聴では無い事を確信している。
 彼は眠りが深い。目覚めるときははっきり目覚め、眠るときはぐっすりと眠る。それが、自然と共に生きるものの定めだ。
 それを破った音が幻聴である筈はなかった。
 そのとき、彼は不意に、異様な臭気が立ち込めていることに気づいた。
 やはり、起きたばかりで感覚が鈍化していたのだ。
 彼は記憶を探った。
 ガスや、便所の匂いではない。
 強いて言えば、以前、山中で遭遇したツキノワグマの体臭に似ている。
 そう思い当たった時だった。
 彼の視界に、青白い二つの光が映った。
 それは部屋の入り口付近に、廊下へ逃がさないかのように、宙に浮かんでいた。
 同時に、彼の耳に、荒い呼吸音が飛び込んでくる。
 総毛立った。
 恐怖が心臓を握り潰すように襲いかかり、電撃が尾低骨から頭頂へと突き抜けた。
 彼は全身の力を振るって立ち上がると、部屋の真中にある電灯のスイッチを引っ張った。
 目潰しになるかもしれない。
 その一瞬に、相手を突き倒して、隣の家まで助けを求めて走るのだ。
 彼は、部屋が明るくなった瞬間、一気に相手に飛びかかろうとした。
 そして、それは永遠に不可能だった。
 彼の目が大きく見開かれた。
 今まで内側に閉じ込めていた恐怖が、顔面にまで到達し、弾けた。
 彼は手にしていた斧を取り落とした。
 誰かの叫び声が、彼の鼓膜をけたたましく叩いた。
 それは、自分の悲鳴だった。
 彼は「そいつ」に背中を向けると、窓に向かって走った。
 体当たりして、雨戸ごと突き破って外に逃げるつもりだった。
 彼の走った先に、窓ガラスがあった。
 窓の向こう側にある黒い雨戸のせいで、それは鏡に匹敵するほどに部屋の様子を映し出していた。
 彼は見た。
 自分のすぐ背後で、歓喜の表情を浮かべて、「そいつ」が襲い掛かってくるのを。
 今度こそ、彼は自分の意思で悲鳴を上げた。
 そしてそれは、絶望を意味するものだった。
 鮮血が飛び散り、彼の妻の遺影を真っ赤に染め上げた。

「昨夜未明、神奈川県清川村で、昨日に引き続いての殺人事件が発生しました。被害者は石塚卓郎さん62歳で、何者かによって背後から・・・。」
 プツリ、と音がして、テレビの画面が黒くなった。
 その男は、手に持ったリモコンを暫く弄んでいたが、やがて大きな溜息と共にそれをテーブルの上に放り出した。
 ゆったりと腰掛けていたソファに身体を沈め、行儀悪く足をテーブルの上に投げ出す。
 男の右側の壁に、でかでかとハンフリー・ボガードのポスターが張ってある。
「で、どうするの?これを放っとく訳?」
 男の背後から、怜悧な女性の声がした。
「・・・いや。もう手遅れだろうな。」
 男はそう言って、それから目を閉じる。
「そうでしょうね。これでもう四件目だし。」
 女の声が答えた。
 男はそれに答えず、ジャケットのポケットから煙草を取り出し火をつけた。
 目を閉じたまま、それをやってのけた。
 女は苦笑を浮かべ、何も言わずに窓を開けた。
 風が部屋に流れ込んで、立ち昇る紫煙を流し去っていく。
 都心からやや外れた、大崎にある三階建の古いビル。
 その一室である。
 眼下には山手線が走り、古いながらも交通の便が良い。
 窓ガラスには、でかでかと文字が書かれている。
 「鮎川探偵事務所」
 だが、実際のところ、ここ一年間で訪れてきた客など一人もいない。
 貧乏臭い事務所に相応しく、貧乏臭いトレンチコートが、ハンガーに掛けて吊るしてある。
 男の趣味である。
 男は20代の半ばから後半、女は20代前半といったところだろうか。
 部屋の中には、パソコンと電話の乗った事務机が一つと、ソファを並べたテーブルが一つ。その上に小さいテレビとラジオがある。
 他には部屋の隅に、小さな金庫と埃を被った本棚が置いてあるだけである。
 「零細探偵事務所」という言葉を風景にすると、こうなるという光景だ。
 本棚の中には物騒なタイトルの本が並んでいる。
 「黒魔術大全」、「神話の妖魔」、「地方別妖怪辞典」などなど。
 さらに、本棚の上にはガーゴイルの彫像が置いてあるのも良くなかった。
 テーブルの上には灰皿があるが、これが頭蓋骨の形をしている。
 客が来ないのも当たり前である。
「小夜、お前、俺が依頼無しで動く人間だと思ってるのか?」
 不意に、男が目を開けて言った。
「あら、あなたはもうちょっと自分の事を分かってると思ってたわ。」
 小夜と呼ばれた女は、艶やかな笑みを浮かべてそう言った。
「・・・チッ、それは、俺がお節介焼きだって言いたいのかよ。」
 男は不機嫌そうに言ったが、それは痛い所を突かれたからだった。
「あなたがもうちょっとビジネスライクだったら、私だって楽できたでしょうよ。その方が、給料が上がるんですもの。」
「ふん、助手のくせに偉そうに・・・。」
 男はぶつぶつと言ったが、結局は彼の性分については、女の言い分が正しい事を認めている。
 何かあると、とにかく首を突っ込んでやりたくなる性格なのだ。
 そしてそれ以上に、彼自身が、自分以外に出来ない仕事があることを良く認識していた。
 女はその事を、当人以上に理解しているのである。
「ま、これは放っといてもいずれは依頼が来るわね。そしてその時には、被害は今より遥かに甚大なものになってる事は、疑いようがないわね。」
「けしかけんなよ。」
 男は半ば呆れつつ言う。
 とはいえ、彼の職業の特殊性から考えても、依頼が来てから仕事にかかるのでは遅すぎるのだ。
 彼が思うに、依頼が来たときに仕事を始動するのでは、後手に回りすぎる。
 それどころか、手遅れになっているにもかかわらず、依頼さえこない事がある。
 それを放って置ける性分ではない。
 結局、自分の性格についても、仕事についても小夜の正しさを認めざるを得ない。
 ビル全体が揺れた。
 ガタガタと音がして、窓ガラスが振動した。
 すぐ下の線路を、山手線が通過していくのである。
 いかにも古いビルらしい、うらぶれた現象である。
「・・・だから貧乏なんだよなあ、俺。」
 愚痴を切り上げる様子もなく、男はソファから立ちあがった。
「で、今回は私はどうすればいいの?手伝う?」
「いや、そんな相手じゃない。性質は悪いが、格は低い相手だ。俺一人で充分さ。」
 男はそう言って、壁に吊るしてあったトレンチコートを肩に掛けた。
「ねえ、まだ九月なんだけど。」
 女が呆れたように言うと、
「馬鹿野郎、男のロマンなんだよ。」
 そう言って、男はドアを開けて出ていった。
 女は肩を一つ竦めると、机の上のパソコンを起動し、何やら仕事を始めた・・・。

「しゅ、主任、た、大変です!警察が来ています。」
 部下の一人が、慌てて政治に電話をよこしたのは、まだ朝はやいうちだった。
 建設現場でのいざこざにすっかり精神を参らせた政治は、昨日は仕事を放棄してホテルに帰り、慣れない深酒をして寝ていた。
 痛む頭をさすってベッドから起きると、彼は自分が裸である事に気づいた。
 よほど堪えていたのか、記憶が無くなるほどの酒量を入れたらしい。
 苦笑すると、彼はシャワーを浴びて現場へと向かった。

 政治が現場へ着くと、刑事と思しき人物が部下達と何かやり取りをしている。
 迷いの無い足取りで、政治はそこへ向かった。
「お待たせ致しました。現場の主任を務めます、佐々木政治と申します。」
 彼は刑事に挨拶をすると、
「で、何かあったのでしょうか?出来る限りの協力は致しますが・・・。」
 刑事は政治を見て、
「佐々木さん、あなた、昨日石塚さんと派手にやりあったらしいですね。」
 その言い方は不快でもあったし、失礼でもあった。そして何よりも、傷を抉られるようで、不快感は例えようも無い。
「成り行きでそうなってしまいました。それが何か?」
 その不快感を隠そうともせず、政治は言った。
「佐々木さん、石塚さんね、今朝早くに亡くなりましたよ。」
「えっ!?」
 再び、政治を衝撃が襲った。
 一瞬昨夜の夢が脳裏を過ったが、その事は胸の内に閉っておいた。

 刑事が説明した事件の概略は、かなり常軌を逸したものだった。
 まず、死亡推定時刻は夜の二時半頃。
 凶器は、鋭く太い槍のような物で、背後から突き込まれて、身体の前面へ一撃で貫通している。
 尋常な力ではなく、とてつもない強力である事は間違い無かった。
 老いたりとはいえ石塚は屈強な体つきであり、それを一撃で貫通させるほどの力となると、並みの者ではない。
 また、石塚の家は発見された時は完全な密室であり、異常を感じた住人達が呼んだ警察官が、家の鍵を壊して中に入った事も分かっている。
 いつもは朝一番に起き出して、付近の住民達に挨拶して回る石塚が、その日に限って起きて来ない。
 昨日の今日だし、まさか自殺でもしたのではないか、とか、年が年だけに、ポックリと逝ったのではないかなどと言う噂が囁かれ、協議の末に警察官が呼ばれる事になったと言う。
 ある意味で、住民達の不吉な噂は的中していた事になる。
 当然の事ながら県警の刑事が呼ばれ、昨日の出来事を聞いた結果、政治にも「ご協力」を要請すべきであるとの結論に達したのである。
 この事件の異常な点は、完全な密室殺人である点だった。
 窓、ドア、それらは全て完全に閉じられており、透明人間でもない限りは、家の中に入る事は出来ないと言う。
 指紋の検出も行われたが、石塚本人以外の指紋は検出されていない。
 そして、県警の頭を一番悩ませているのは、今回の事件を含めて、これで同じケースの事件が四件目になるからであった。

「被害者は、今のところ全員がダム工事反対派です。まさかと思いますが、背後に何かあるのではないかとも勘繰りたくなりますねェ・・・。」
 刑事の目が冷たく光る。
「我々が、暴力組織と結託しているとでも言うのですか!?」
 政治の声が高くなる。
 とんでもない名誉毀損だ、と政治は思う。
「そうは言いませんよ。でもねェ、こういう異常な犯罪ってのは、素人がやろうったって出来ませんからね。考えられる可能性ってものを考えなくちゃならないんで。」
「それは分かります。ですが、私達が疑われるのは迷惑です。この際はっきり申し上げるが、我々は暴力組織などと関わった事は、会社の設立以来、一度もありません。」
 政治は憤慨しつつも、昂然と言い放った。
 事実彼が知る限りでは、本社も支社も、そういう体質とは全く無縁の存在である。
「まあ、そう興奮しないで頂きたい。我々は人を疑うのが仕事なんですからね、多少は大目に見ていただかないと。」
 刑事はそう言って軽く笑った。
「とにかく密室殺人が連続で四件も起こっている。しかもそれが皆、ダム建設反対派住民が被害者だ。」
「はあ・・・。」
 政治は、多少毒気を抜かれた表情になった。
 刑事の言わんとする所は分かる。
 だが、一方であまりにもあからさま過ぎる気もするのだ。
 何故この時期に、しかも連続で反対派住民が殺されるのか。
 今の時期に、仮に会社の上役の陰謀が影で働いていたとしても、結局会社への疑いを強めるだけである。
 政治にはよく分からないが、少なくともこの刑事は駆け引きをを放棄しているらしい。
 明らかに「あなた方を疑っていますよ」と遠まわしに言っている訳で、その直截さに、むしろ毒気を抜かれてしまうのである。
「私は刑事さんと違って専門家ではないから、何が動機で何を目的としている犯行かは分かりませんが、少なくとも我々と無関係である事は断言します。」
 政治がそう言うと、刑事は冷笑を瞳に浮かべた。
「それは、我々の判断する事ですな。」
 そう言われて、政治はさすがにむっとした。
「そりゃあ昨日の一件の後ですから、私が石塚さんの件で疑われるのは分かりますよ。でも他の三件については、私は被害者の方とは会ったことすらありません。名前さえ知らないんですよ。」
 むきになって言い返した政治だが、言ってから多少の不安がせり上がってきた。
 会った事がないと言うのは、この場合は印象にないと言う事で、彼はいつも反対派住民と顔を突き合わせているのだから、どこかで会っているはずなのである。
 そこを刑事に突っ込まれたら、とも思ったが、刑事は別のことを考えているようだった。
「思うに、これほど見事な密室殺人は、近代史上稀ですな。幽霊でもない限りは難しいでしょうなあ。」
 刑事の口から出てきた単語が、政治の意表を突く形となった。
「幽霊、ですか?」
「そうです、幽霊です。幽霊なら、壁抜けくらいは出来るでしょうからね。」
 刑事はそう言って、それから自分のセンスの無さに呆れたらしく、軽い舌打ちをした。
「まあ埒も無い事を言ってしまいましたな。忘れてください。」
 そう言って刑事は笑ったが、政治は軽く愛想笑いを返しただけだった。
 なんとなく、心のどこかに引っかかるものがあったからである。

 結局、ダム工事はかなりの期間に渡って延期される事になった。
 事件が頻発しすぎていたし、住民達の感情も、石塚の死でかなり過敏になっていたからである。
 これでは交渉すら難しい、との本社の判断で、工事は延期される事が決定した。
 政治にとっては、それは何の成果もない、何の実りもないプロジェクトに終わった。

 昼下がりの公園。
 鳩の群れが宙を舞い、陽光が噴水を照らし、光の破片を降り注がせている。
 その男はベンチに座って、コンビニで買ったサンドウィッチを頬張っていた。
 季節外れのトレンチコートが秋の風に靡く。
 通りすがりのOLが男の姿を見てくすくすと笑ったが、男は全くそれを気にしていない。
 サンドウィッチを持っていない方の手にはメモ帳があって、一心不乱にそれを読んでいたからである。
 メモの中身は、素人には全くわからないものだった。
 字が汚いからである。
 足元に落ちたパン屑を啄ばみに、鳩が集まってくる。
 ピーピピピピーピ、ピピピーピピ♪・・・
 アズ・タイム・ゴーズ・バイの着信音が鳴り響き、男はハンフリー・ボガードを気取った声で、
「俺だ。何か分かったかい?」
「・・・その喋り方、何とかならない?」
「うるさいな、ロマンだと言ってるだろうに。」
 たちまち地が出るのであった。
「それより小夜、例の件、調べたんだろうな。」
「当たり前よ。だから連絡したのよ。」
「で、どうだった。」
「思った通りね。彼は少年時代、四国にいたことがあるわ。多分そこで・・・。」
「そうか、やっぱりな。」
「どうする?随分時間も経ってるし、手におえないほど成長してる可能性もあるわよ。手伝おうか?」
「心配するな、俺一人で充分さ。」
「心配するわよ。決まってるでしょ。」
「何だぁ?やけに可愛いこと言うじゃないか。」
「当たり前よ。」
「安心しろ。俺は不死身だ。お前の愛に応えるために死なないでおこう」
 男は気取りまくった声で応えた。
 返答は、嘲笑を含んだものだった。
「そう信じたいわね。あなたに死なれたら、誰が給料払ってくれるのよ?」
「・・・・・・。」
「何黙ってるの?」
「知るか、この女狐!」
 ぷちん、と携帯のボタンを押して、男は電話を切った。
「期待した俺が馬鹿だったよ、全く。」
 全く持って本当の事を呟きつつ、男は残ったサンドウィッチを口に放り込んだ。
 それを無理やり烏龍茶で流し込むと、男はコートの裾で手を払う。
 手からパン屑が全て落ちた事を確認すると、男は立ち上がった。
 鳩が驚いて飛び立った。
 男はメモをポケットにしまい込むと、確認するように時計を見た。
 瞳が、今までとは違う光を宿している。
 狩人の目だった。
「さて、ビジネスの始まりだな・・・。」
 呟いて、男は公園を出るべく、歩き去った。

「この度は残念だったな、佐々木くん。」
 政治の上司である丸亀は、厚い掌を彼の肩の上に置いてそう言った。
 丸亀のいう「残念」とは、昇進がお預けになった事を指す事くらいは、政治にも理解できた。
 政治は疲れ切っていた。
 昇進が叶わなかったこともそうだし、自分が思っていたよりも、現実が重い事を思い知らされた事もその理由であった。
 彼は、このダム工事のプロジェクトに全てを傾注してきた。
 それが徒労に終わったとき、彼の中に、暗い失望がじわじわと侵食してきた。
 休みたかった。
 少し休んで、色々と考えたかった。
 自分は何のために仕事をしてきたのか。
 自分にとって仕事とは何なのか。
 家で、いつものようにだらだらと過ごしながら、考えてみたかった。
 身体も頭も重かった。
 ただ、無性に我が家が恋しかった。
「・・・そうそう、君に会いたいという人が来ていたぞ。」
 不意に、丸亀の声が耳に入った。
「は?」
「季節外れのトレンチコートなぞ着た、身形の汚い男だったが、君の知り合いかね?」
 政治は自分の記憶の引出しをひっくり返してみたが、そういう人物は知り合いにはいなかった。
「いいえ。心当たりはありませんが。」
「そうか。なら良いのだがね。」
「どうかしたのですか?」
「いやなに、君が帰ってくるまで待つというから、疲れているだろうから明日にしてくれといって追い返したのだよ。」
「はあ・・・。」
 政治としては、丸亀の配慮に感謝したいところであった。
「とにかく、今日は帰りなさい。疲れているだろうし、明日から本格的に働いてもらうから。」
 丸亀はそう言った。
 大人しく言葉に従うしかなかった。
 身体も、そして精神も、疲れきって泥のように眠りたがっていた。
 丸亀に一礼すると、政治は退室し、家路へついた。

「小夜、まだ分からんか!?」
 男は焦っていた。
「そんな、まだ無理よ。もう少し時間をちょうだいよ。」
「悠長にすごしてる訳にはいかないぞ。」
「あのねえ、人をせっつく暇があるなら、自分の交渉術を少し磨きなさい。あなたが彼の家を聞き出すのに失敗したから、こうして私が苦労してるのよ。」
「それはわかってる。けど、もう時間が無い。ヤツは途方も無く成長している。というより、もう彼と奴は一体化していると言ってもいい。このままだと、今夜中には最終覚醒するぞ。」
「分かったから、後一時間ちょうだい。それだけあれば何とかなると思うわ。」
「頼むぞ、小夜。」
「ちゃんと給料に反映してよ。」
「なるべく善処しよう。」
 男はそう言うと携帯を切った。
 それから、空を見上げる。
 日は大きく西に傾き、徐々に暗闇が迫りつつあった。
「・・・まずいな、もう始まっちまう。」
 日本の言い古された言葉で「逢魔が刻」が近かった。

「お帰りなさい。今日は早かったのね。」
 和子は、些か意外だという表情で迎えたが、その中には暖かさがあった。
「ただいま。悪いけど、今日は風呂に入ったらすぐ眠りたいんだ。」
 政治が言うと、和子は微笑んで、
「分かりました。すぐ用意するから・・・。」
 そう言って小走りに風呂場へと駆けて行った。
 その後姿を見送って、政治は安堵を覚えていた。
 久しぶりに、心が落ち着いたような気がしていた。
 自分がいつも心を張り詰めていた事に、彼は気づいた。
 彼は、家庭の中に、大きな安らぎを感じていた。

 アズ・タイム・ゴーズバイのメロディが流れるのとほぼ同時に、男は通話ボタンを押した。
「分かったか!?」
「ええ。中野区よ。詳しくは送った地図を見て。」
「中野区か・・・。」
「今、どこにいるの?」
「新宿だ。乗換えなんかを考えても、ここが一番早いと思ってな。」
「今の時間なら、車より足のほうが速いわね。」
「そうするさ。じゃ、切るぞ。」
「・・・気を付けてよ。侮っちゃ駄目だからね。」
「安心しろ。お前の給料のために俺は死なん。」
「頼もしいわね。でも、本当に怪我なんかしないでよ。」
「分かってるさ。」
「治療費だって馬鹿にならないんだから。」
「少しは可愛げのある事言え、この女狐!」
 男は通話を切り、地図を確認すると、一気に走り出した。
 既に夕暮れが世界を支配しはじめている。

 熱い風呂は心地よかった。
 ゆっくりと湯につかりながら、政治は身体の疲れが湯に溶けていくのを感じていた。
 同時に疲れた頭の中で、自分の仕事のあり方について考えていた。
 自分は、何のために「仕事の鬼」とまで呼ばれてきたのだろう。
 走馬灯のように、今回のプロジェクトに関わった人物達の顔が、頭の中を駆け巡っていく。
 部下達の顔。
 仕事を与えられた充足感に満ちた、希望に燃えた目を持っていた。
 反対派の住民達の顔。
 彼等とは、ついに分かり合える事は出来なかった。でも、彼等の抱いた思いの一部だけは、確かに感じる事が出来たと思う。
 石塚の顔。
 政治は、どうしても自分を絞め殺そうとした男を憎む事が出来なかった。彼の必死の思いを知ってしまったから。それは、仕事に携わるものとしては明らかなミスなのだろう。黙って与えられた仕事をこなすべき人間が、それを邪魔する人間を理解するなど、所詮は偽善なのかもしれない。
 それでも、政治は彼を憎めない。
 非業の死を遂げた石塚。
 そしてそれを報告にきた刑事。
「・・・幽霊」
 ポツリと政治は呟いた。
 何かが、あのとき以来何かがひっかかったままだった。
 それは何なのだろう?
「ワカッテイルハズダロ?」
 驚いて、政治は周りを見渡した。
 誰だ!?
 誰の声だ!?
「クックックック、ナニヲアワテテルンダイ?イマサラ・・・」
 何だ!?
 いったい誰が、どこで!?
「クックックック・・・。ジブンヲゴマカスナヨ、セイジ・・・。」
 だ、誰だお前は!?
 俺はお前なんか知らないぞ!!
「ウソハヨクナイナァ、セイジ。オレハオマエヲヨクシッテイルゾ。ジコチュウシンテキデ、ワガママデ、ソシテソンダイナオマエヲナァ・・・。」
 ち、違う、ちがうっ!!
 俺は知らない!!
 お前なんか知らない!!
「クックックック。オレハナァ、オマエニヨバレタンダヨ。オレガオマエヲヨンダノデハナイ。オマエガオレヲヨンダノダ。ワスレテモラッテハコマルナァ。クックックック・・・。」
 忘れる・・・。
 わすれるだと・・・。
 政治の視界が白くなっていく。それは風呂の湯気ではなかった。
 記憶の封印が解け始めたとき、政治の前には懐かしい光景が広がっていた。
 暗闇の中で一人膝を抱えて泣く少年。
 過剰な家族の期待に応えることに疲れ、いつしか自分を暗闇の中に葬った少年。
 これは・・・、俺だ。
 政治は今、暗い記憶の底から、本当の自分を取り戻そうとしていた。
 少年が、政治のほうを見た。
 政治は、吸い寄せられるように少年に近づいていく。
 意思とは無関係に、その足は勝手に動いていく。
 少年の口元が動いた。
 微笑んだのだ。
 政治は少年の目の前まで進み、そこで止まった。
 微笑んだ少年は、立ち上がった。
 政治はゆっくりと少年に片手を差し伸べた。
 少年はその手を見て、それからまた政治を見て、にっこりと笑った。
 そして、少年は、政治の手を握った。
 政治は見た。
 その腕を鱗が覆い、指の一本一本が、毒蛇の姿をしている事を。
 政治は悲鳴を上げた。

「くそっ、こっちも行き止まりかよ!!」
 慣れない土地での行動が、男の足を引っ張った。
 狭い路地と入り組んだ道が、男を迷わせていた。
「まずい、まずいぞ。このままじゃ・・・。」
 男が路地裏の探索をやっている間にも、事件は起ころうとしている。
 男が何本目かの路地を抜けようとしたときだった。
「あった!あれだ!」
 路地を抜けた先に、目印になるスーパーの看板が見えた。
 ここまでくれば、もう迷う事は無い。
 あと一息だ
 男は、さらに速度を上げて走った。
 既に真っ暗になった住宅街は閑散としていて、人が通る気配は全く無い。
 その中を、男は疾風のように駆けて行く。

「やだ、あなた、何て格好ですか!」
 和子は呆れて怒鳴った。
「わ、やだ、お父さん、何て格好してんのよー!!」
 母の声につられて、冬実までもが奇声を上げた。
 体中から水滴を滴らせて、政治は一糸も纏わぬ姿をしていた。
「ほら、お風呂に戻って身体を吹いて!」
 和子はそう言って政治に近づこうとした。
 刹那、
「来るなっ!!」
 政治が大声で鋭く怒鳴った。
「ちょ、ちょっとあなた、どうしたんですか・・・。」
 和子は、構わず政治に近づきかけて、そして途中で歩を止めた。
 政治の瞳が、異様な光を湛えていた。
 蛍光色と言っても良かった。
「お、とう・・・、さん?」
 冬実が、何故ともなしに一歩退いた。
「・・・・・ろ。」
 政治の口からは、言葉の断片が漏れている。
「え?え?」
 和子は、ただおろおろとうろたえた。
「・・・・・げ・・・ろ。」
「え・・・。」
「に・・・げ・・・ろ、逃げろ、二人とも逃げるんだっ!!」
 そう叫んだ瞬間、政治の意識が弾け飛んだ。
 視界が少しずつ失われてゆき、それに伴って、他の感覚も失われていく。
 霞がかかった視界の端で、和子と冬実の表情の変化が、それでもはっきりと捉えられた。
 それは、始めは唖然、次に呆然になり、それから一瞬の嫌悪感を挟んで、瞬間的に恐怖へと変貌した。
 政治の耳が、どこか遠くで二人の悲鳴を聞いた。

 男がその家の前に辿り着いたとき、玄関は開け放たれ、家の中からは異臭が漂っていた。
「っく、間に合わなかったか・・・。」
 それは、男にとっては、お馴染みの匂いだった。
 流れ出たばかりの、人間の血の匂い。
 男は躊躇無く家の中に飛び込んだ。
 家の中には、二人の女性が倒れていた。
 いずれも腹を打ち抜かれている。
 銃弾などではなく、鋭利な凶器だった。
 致命傷だ。
 母親と思える女性は、既に事切れていた。即死だったのだろう。苦痛すら感じなかったに違いない。
 まだ14,5歳と思える少女の方は、辛うじて息があった。
 男は、片手をその傷跡に翳した
 少女の表情から苦痛が徐々に消えていき、変わって恐怖と哀しみが表れた。
 男の腕の中で、少女は消えようとする命の破片を掻き集めて、必死で訴えた。
「お・・・、おとう・・・さんが、おとう・・・さんが・・・。」
 ただ同じ言葉を繰り返す少女の瞳から、涙がこぼれた。
 それは頬を伝い、男の腕を濡らした。
「と・・・めて・・・。おとうさ・・・ん、と・・・め・・・。」
 彼女の命は、そこで終わった。
 男は静かに彼女を床に寝かせると、軽く黙祷した。
 それから立ち上がると、玄関から表へと走り出た。

 「そいつ」は血に酔っていた。
 新たな獲物を求めて、暗闇の支配する住宅街の中を、醜怪な姿を曝して歩いていた。
「どこへ行く気だ、トウビョウ。」
 その背後から、男の声が響いた。
 「そいつ」は驚いて振り向いた。
 人間の存在に敏感な「そいつ」に全く気取らせなかったのだ。
 只者であろう筈が無かった。
 暗闇の中から、季節外れのトレンチコートを着た男が、水銀灯の光の下に姿をあらわした。
 片手には錫杖を持っている。
「・・・それがお前の真の姿って訳だ、佐々木政治。」
 男の呼びかけに、「そいつ」の身体がピクリと震えた。
「ふん、まだ完全に理性を失ってる訳じゃなさそうだな。だが、もう手遅れだ。」
 男は「そいつ」を恐れる様子もなく、一歩づつ近づいてくる。
「悪く思うなよ。合わせて14人もの人間を惨殺したお前を、そのまま放置しておくことは出来んからな。」
 そう言うと、男は錫杖を右手に持って水平に構えた。
 左手で杖の半ばを握り、それを水平に引っ張ると、そこから鋭利な刃物が姿を表す。
 一面に凡字が刻んである。
 刃に月光と水銀灯の光が跳ね、「そいつ」の顔を水平に薙いだ。
 「そいつ」は、圧倒されて一歩後退する。
「・・・退魔師・鮎川涼、天意に依り邪龍・トウビョウを調伏する。」
 男は名乗りをあげ、同時に宣言した。
 退魔師に古くから伝わる、それは儀礼であった。
 トウビョウと呼ばれた怪物は、明らかに怯み、気圧されていた。
 目の前に立っている人間が、並々ならぬ強敵である事を悟ったのだ。
 逃走の機会を伺うように、じりじりと後退する。
 だが。
「逃がしはせん。貴様は、ここで、破壊する!」
 鋭く言い放つと同時に、周囲の景色が瞬時に変わった。
「!?」
 トウビョウと呼ばれた怪物は狼狽した。
 こんな事は過去数百年生きてきて、一度もなかった。
 景色の変化に伴って、周囲の明るさも変わった。
 昼間のように明るい空間の中で、トウビョウの真の姿が曝け出された。
 それは、毒蛇の集合体であった。
 身体の各所に蛇が纏わり付き、その本体もが巨大な蛇だった。
 指の一本一本が、小さな毒蛇の姿をしている。
 トウビョウは、何を血迷ったか、いきなり男に背を向けて逃走しようとした。
 バン、と音がして、トウビョウは見えない壁に弾かれて地面に転がった。
「空間を切り離し、異界化させた。貴様に残された道は、死ぬか滅びるか、どちらかだ。」
 鮎川涼と名乗った男は、目の前の怪物に向かって冷たく言い放った。
 涼の右手が身体の脇に回った。
 必然的に、刃の切先がトウビョウに向く。
 トウビョウは恐怖に慄いていた。
 必死で立ちあがると、またもや逃げ出そうとし、またもや壁に弾かれる。
 それを何度も繰り返す。
「・・・諦めろ。命を贖う事が出来るのは、命だけだ。」
 涼はそう言うと、トウビョウとの間合いを無造作に詰めた。
 その瞬間、トウビョウの右手の指が一本に集まり、鋭い槍となって涼に襲い掛かった。
 凄まじい速さで、どんな武道の達人でも避けられないだろう。
 瞬間、空間に電光が走った。
 鈍い擦過音がして、次に何か重いものが地面に落ちる音がした。
 トウビョウの右手が消失していた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!」
 不快感極まる、声にならない絶叫がトウビョウの口から迸った。
 だが、トウビョウも必死だった。
 間髪置かず左手の指が纏まり、涼を襲おうとする。
 それを、紫電の速さで涼は斬り払った。
 不気味な色の、生暖かい液体が周囲に飛び散り、トウビョウは再び絶叫した。
 両手の機能を一瞬のうちに失って、トウビョウはのたうち回った。
 無慈悲に止めを刺そうと、涼が錫杖を振り上げた時、トウビョウの身体が掻き消えた。
 宙に溶け込むように、完全に姿を消したのだ。
「・・・その手は通じないぜ。」
 全く焦る事もなく、涼は左手で印を切った。
 次の瞬間、涼の真後ろの空間にトウビョウが現れ、そのまま地面に落下した。
「姑息な手だな。壁抜けの応用で実体を消したつもりだろうが、退魔師にそんな手は通じんよ。」
 言いながら涼は振り返って、トウビョウに近づいていく。
 トウビョウはじりじりと後退し、やがて壁際に追い詰められた。
 その眼前に、刃が突き付けられた。
「終わりだ。死ね。」
 涼が言った時だった。
 トウビョウの顔が変化し、見る見るうちに人間のものになった。
 佐々木政治の顔。

「や、止めてくれ、許してくれ。私は、本当はこんな事したくなかったんだ。」
 必死の形相で、政治は懇願した。
「・・・・・・。」
 涼は、ただ黙ってそれを見下ろしている。
「私はこんな姿になりたくなかった。こんな事をしたくはなかった。本当だ、頼む、助けてくれ!」
 政治の顔は、苦痛と恐怖に慄き歪んでいる。
「わ、私は悪くないんだ、私に憑いて来た、この化け物が悪いんだ、頼む、人間に戻してくれ!」
 相変わらず、涼はそんな政治の姿を、冷たく見据えているだけだった。
「いやだ、私は死ぬのはいやだ!私は人間だ、化け物なんかじゃない!」
 もはや政治の声は、悲鳴に近かった。
「何故だ!?何故、私がこんな目にあう!?私は今まで真面目に生きてきた!誰にも迷惑をかけないよう、身を慎んで生きてきた!なのに、何故私が!?私は悪くない!!私は悪くナいんだ!!私を、コの化け物がそそのカシたんだ!!そウダ、こいつが私をコンな目にアワせテイるンだ!!わたシハわるクなイ!!ワタシハナニもわルイコトはシテイナインダ!!ソウダ、ワタシノジャマヲスルヤツガワルインダ!!ワタシニハムカウヤツガワルインダ!!」
 それは、もう佐々木政治という人間ではなかった。
 トウビョウという化け物と一体化した、奇怪な生物に過ぎなかった。
「あんたの言いたい事は良く分かるさ。」
 涼が応えた。冷たい、透き通った声で。
 それがかつて政治だった生き物の恐怖感を、絶頂まで引き上げた。
「だから安心して死ね。」
 涼が言い放った瞬間、「そいつ」は、咆哮を上げて涼に飛びかかった。
 野獣としか言いようのない姿。
 失った両手の変わりに、唯一残された武器、口で噛みつこうとした瞬間。
 閃光が水平に走った。
 弾かれたように、空中でトウビョウの身体が急停止し、そのままそこにぶら下がった。
 盆の窪にあたる位置から、刃が突き出ていた。
 涼を襲ったトウビョウの、大きく開いた口のド真中に、錫杖が突き刺さっていた。
 トウビョウとも、政治ともつかない「そいつ」の目から、涙が流れていた。
「な・・・ん・・・で・・・。」
 私がこんな目に、と言いたかったのかもしれない。
 だが、その言葉が音声として結晶化する前に、トウビョウの身体は灰になって崩れ去った。
「・・・終わったな。」
 涼は呟き、一つ息を吐いた。

 佐々木政治は、酒乱の父を忌み嫌っていた。
 暴力に怯える母の姿を見て、父のような人間にはなりたくないと思った。
 やがて、母は政治を連れて家を出、実家に身を寄せた。
 祖母も祖父も母も、政治に期待した。
 彼等が、政治の父に裏切られたという思いは大きく、その分、それは政治に指向したのである。
 政治はそれに必死で応えた。
 彼は「ろくでもない男の血を受けた者」として、影で迫害されていた。
 田舎の話でもあるし、昔の話でもある。
 自分ではどうしようもない血縁を責められて、政治は荒れた。
 自分は父とは違うという事を、何かにつけて主張しなければならなかった。
 ミスは許されなかった。
 そんな生き方に疲れ切って、人知れず政治は荒れた。
 力が欲しいと思った。
 理不尽な評価を覆す、そして悪意を持つ連中を叩きのめせる力を。
 そして、政治はそれを得た。
 問題となるのは、それが自分の努力によるものではない点だったろう。
 それからの政治は、明らかに人が変わっていた。
 父の事を吹っ切ったように、何を言われても平然と受け流していた。
 むしろ、彼を罵倒するもの達を、哀れみにも似た笑いを含んだ目で見下していたという。
 その頃、彼に悪意を持つもの達が次々と変死するという怪事件が起こっていた。
 始めの一件は「頓死」で済まされ、泣き叫ぶ家族以外は事件の真相を究明しようとは思わなかった。
 だが、殆ど間も置かずに二件目、三件目の「頓死」が発生すると、さすがに不安と不信と恐怖が人々の周りでステップを踏んで踊り始める。
 始めは人々は薄気味悪がり、そのうちに怯え始め、そして最後には誰も彼に敵対しなくなった。
 いつしか政治少年は、村中の恐怖の対象となっていた。
 やがて政治とその一家は、東京へと移り住むことになった。
 誰もが薄気味悪い少年の記憶を忘れようと勤め、それは時と共に風化していった・・・。

「つまりは、佐々木政治は、心に抱えた闇につけ込まれる形になったわけだ。」
 ハンフリー・ボガードのポスターの下で、涼は行儀悪くテーブルの上に足を投げ出しながら、調べ上げたメモを片手に説明している。
「哀れな話ではあるわね。自分のせいでもない事を責められた挙句、得体の知れない怪物に、精神どころか身体まで乗っ取られるなんて。」
 お茶を淹れながら小夜が応じる。
「冗談じゃない、それは筋が違うな。」
「どうして?」
「彼に同情できるとしたら、せいぜい父の汚名を無理矢理被せられたところまでだ。彼はそれを、自分の努力で跳ね返すべきだった。何が何でもそうしなければならなかったんだ。自分自身の力で不当な評価を覆す事こそ、人間らしい生き方だからだ。それが出来なかった彼の弱さが、今度の事件にまで繋がった。」
 喋りながら、涼の心のキャンパスにはある光景が描かれている。
 暗闇の中、雨が降っている。
 少年は膝を抱えて泣いていた。
 そこにぼんやりと光る、人魂のようなものが近づいてくる。
 やがてそれは少年の前に停止し、以後、少年は幽霊の存在を信じる事になる。
 少年の心に、声が響いた。
(チカラガホシイカ・・・?)
 少年は暫くの間躊躇っていたが、やがて、意を決したように頷いた。
 それが禁断の領域に足を踏み入れる事だと知りながらも、少年は自分の意思でそれを選ぶ・・・。
「トウビョウって言ったわね。四国や中国地方に伝わる蛇の化け物ね。」
「そう。人に取り憑いて、暗い“気”を餌に成長する性質の悪い奴だ。悪いのは、取り憑かれてる方に自覚症状がない事が多い点だな。」
「彼もそうだったのかしら?」
 佐々木政治の場合を省みて、涼は些か苦い気分になる。
「違うだろうな。彼の場合、取り憑いた側が、取り憑かれた側に取り込まれたというのが正しい。」
 言いながら、涼は人間の心の弱さに思いを馳せている。
「佐々木政治が問題だったのは、完全に人格を分裂させてしまった事だ。表では真面目な人格者である事を続けていながら、裏では血に飢えた野獣と化してしまったんだ。敵対する人間を根こそぎ消し去ったという事実が、それを証明している。」
 悪意に対して過敏になった人間は、その存在を許せなくなる。
 自分と異なる世界を持つ人間を認めなくなるのだ。
「自分に悪意が向いていると知ったとき、佐々木政治は表では寛容にそれを受け入れながらも、裏ではそれを許せなくなっていた。さらにまずい事に、他人が血を流す事を喜ぶという傾向まで持っていたからな。元々トウビョウって奴はそこまで邪悪な存在じゃない。それをあそこまで狂暴な化け物に育て上げたのは、他でもない、佐々木政治本人の裏の人格なのさ。」
「二重人格ってことだったのかしら?」
「完全な正解じゃないが、それがやや近いかもしれないな。始めはトウビョウと出会ったことを黙秘するだけだったんだろうが、やがてそれを、記憶の封印として心の奥に閉じ込めたんだろう。自分でも忘れるくらいに強くね。そしてそれが、裏の人格として固定したんだ。過去の忌まわしい記憶ともどもさ。佐々木政治が叫んでた自分は悪くないって台詞は、表の佐々木政治の人格にとっては、主観的な真実だったんだろう。」
「じゃあ、どうしてトウビョウは覚醒したのかしら?」
「今回のダム建設で久々に強い悪意に曝されて、佐々木政治の裏の人格が目覚めたからさ。激しい住民達の抵抗を感じたとき、佐々木政治の裏の人格が何十年かぶりに目覚めた。今までそれを必死に押さえつけてきた理性も、ついに弾け飛んだって訳だ。」
 東京に出てからの佐々木政治の人生は、闇とは無縁のものだった。
 それでも彼の中に巣食った化け物は、時折与えられる極微量な餌を食らいながら、いつしか本人の手におえないほどの巨大さに成長していったのだろう。
 それが本格的に目覚めたとき、彼の理性は対抗する術を持たなかった。
 最後の政治の叫びは、人間である事を止めた政治の、最後の自己弁護だった。
 思えば、政治に残された最後の理性は、自分の存在を正当化する為だけに費やされていたのだ・・・。
「結局、邪悪な妖魔どもの存在より、それに付け込まれる人間の心に問題があるってことだな・・・。」
 テーブルの上の灰皿を手元に引き寄せ、涼は煙草に火をつけた。
 憂鬱な気分を紫煙に溶かして吐き出そうとするように、涼は深くそれを吸い込んだ。
 風のない空間で、それは絡み合いながら天井まで昇って行き、そこで薄くなって消えた。
 仕事の後、涼はいつも憂鬱だった。
 退魔師という仕事は「魔」を払うものである筈なのに、何故かそこにはいつも人間の心の弱さがある。
 結局、人間という奴は弱いものなのだ、と認識せざるを得ない。
 闇に捕らわれ、その中へ引き摺り込まれていく人間。
 彼が払うべき相手は、人間の心そのものなのかもしれない。
 だとしたら、退魔師とは、何と業の深いものだろう。
 人間の中に巣食う闇を払うために戦い続けることが、俺には出来るだろうか・・・。
 不意に、立ち昇る紫煙が乱れた。
 小夜が席を立ったのだ。
 部屋の隅の引出しから通帳を取り出して、それを涼の目の前に放り出した。
「今回の報酬だそうよ。上の人達からの伝言だけど、依頼前に片付けたから25%引きになってるって。まあ余計な事をするなということかしらね。いつもの事だけど。」
「ふん・・・。」
 涼は通帳を確認すると、ソファに身体を沈めた。
「毎度のことながら情報が速いね、うちの組織は。流石は秘密結社だな、感心するぜ。」
「私に毒づいてもしょうがないでしょ。」
 小夜は軽く言い流して、涼の手から通帳を引っ手繰った。
「で、給料が入ったんだから、何かご馳走してくれるわよね?」
 涼は思いきり煙を吸い込んでしまい、むせ返った。
「ちょっと待て。自分の給料で食えば良いだろ。」
「あら、自分を愛してくれる女性にご馳走してくれるのくらいは、男として当然じゃない?」
 公園での電話のやり取りを揶揄されている事は、すぐに理解できた。
 からかわれている訳だ。
「つまらんことを覚えてるんじゃない。」
「つまらないかしら?」
「ああ、つまらないね。」
 そう言いながら立ち上がり、涼はトレンチコートを壁のハンガーから取って、肩に掛けた。
「そら、さっさと用意しろ。店が混む前に行くぞ。」
「店って、どこ?」
「馬鹿、自分で言って忘れてどうする。飯、食うんだろ?」
「ご馳走してくれるの?」
「仕方ないからな。大食らいの助手を持つと大変だぜ、全く。」
「そんなデリカシーのない事ばかり言ってるから、もてないのよ。」
「うるせい。ほら、用意しないと置いて行くぞ。」
「用意なんかないわよ。さっさと行きましょ。」
 そう言って、小夜は涼と腕を組んだ。
 にっこりと笑う。
「じゃ行くぞ。用意は宜しいでしょうか?姫。」
「苦しゅうない。」
「こら、調子に乗るな。」
 軽口を叩き合いながら、二人のシルエットはネオンライトに照らされた夜の街の中に溶け込んでいく。
 闇と光が同居する、人の心と同じ姿をした、夜の街の中に・・・。

 太古より、人の心に巣食う闇と戦う者達がいる。
 魔を払い、闇を払う彼等を、人々はこう呼んだ。
 「退魔師」と。


     〜〜〜〜〜〜〜〜〜FIN〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「またまた後書き」を読む

ここから戦略的撤退を行う